「果たすべき事」(2) † 自らのため信ず。 救い主イエスは初めに「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11・28)と、招かれた。個々の人間自身が、現実に持っている人生の重荷を取りのぞき、神の平安の中に住まわせてくださるためである。主イエスの、全ての人に対して果たすべき事は、ここにある。同時に、私達は主イエスの十字架と復活の、神の御力によって、生きる人生のすべての重荷を、主イエスに委ねることが「果たすべき事」なのである。まず、私達は罪人として「自己中心」でしかあり得ないのであり、主イエスの福音は、個々の一人一人へのアプローチとして明らかにされた。福音は、宇宙創造の神の本質である、憐れみと慈しみの表れである。個々の一人一人を「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」イザヤ49・16)まさに、神はあたかも、私のみを見つめておられるように、ご自身の恵みに満たそうとして下さるのである。福音の広がりは、全世界の人々への宣教であり、救いである。しかし、その源泉は、私自らのために、注がれる圧倒的な祝福と、神の憐れみと、慈しみの現実が、生みだしてゆくのである。ハレルヤ! † 主なる神のために。 私達は知的な理解力や、判断力を与えられている。教育はこの世に役立つ者、その能力を増し加える事に向けられる。それは、世界中がそうである。元来、大学は神の言葉を正しく理解するために、創設された。16世紀のルネッサンス(人間の個性・自由な生き方を求める)を機に転換した。大事なことは、どの様な時代であれ、主なる神は、変わりなく恵みを注がれている。どの様な時代であれ、人々は滅びる運命を免れることはできない。上掲のごとく、圧倒的な神の愛は私達に注がれる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 2コリント5・17)古きから、新しきへの転換が明確に起こった。主なる神のために、生きる私達の人生を、神の「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」1ヨハネ4・13)と、明確に宣言する。私は神の子供であり、神の御力に支えられるのだ。神は、私達に御霊と御力を注ぎ、ご自身の約束を、果たさるのである。
「果たすべき事」(1)
「果たすべき事」(1) † 幸いな人。 「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20・24)演劇のセリフではない。真摯なまことの言葉なのだ。ここには長寿を求める願望も、栄達を求める欲求もない。パウロは「成し遂げるべき任務」を、いつも目の前に置いていたのだ。私達は自由主義的に、自分で自分の道を決めたい。しかし、パウロは違う「決められた道」を知っている。「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです」エペソ1・11)神の目的に従って、自分に定められた任務を受け容れる。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」エペソ2・20)私達はダビテのように「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである」使徒2・25)私の良い行いは、主が成し遂げられるのだ。 † 省みてわかる。 私達は、生きている間に、悟りを得なければ、人生は無に等しくなる。その良い例がルカ16章19-31「ラザロと金持ち」の実話に書かれる。繁栄は神からのものとしてヨブは敬虔に生きたが、多くの人は順風満帆の時に、神から遠ざかる。貧しい者も、豊かな者も「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある」伝道3・2)ソロモン王の偉いところは、地上のあらゆる生業(ナリワイ)は「空の空」と悟ったことにある。ラザロに対する金持ちは、先人の知恵に学ばず、省みて学ぶ事を怠った。死んでわかった のだ。自分は黄泉で苦しみ、ラザロはバラダイスにいる。金持ちは、絶望の淵から叫ぶ、私には五人の兄弟がいる、彼らまで、この苦しみの場所に来ることがないよう警告して下さい。と、その答えの声が鳴り響いた。彼らには聖書がある。これに耳を傾けるほかに道は無い。と、人生の結果である「死」がら省み、悟るべきなのだ。
「霊的な同化」(7)
「霊的な同化」(7) † 主イエスの精神。 心(精神)と言う言葉は、誰にもわかる。特別な霊的な言葉ではない。そのようにクリスチャンの信仰は、心の内側から言葉となり、態度となって現される。利害を含む人間関係や、様々な生活上の重要度においても、その人の信仰は、その人の「心」の命ずる言葉となり、行動や態度に表れる。このような私達を、主なる神は見ておられるに違いない。「・・・・数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」黙20・12)救いは信仰によるものであるが、信仰は必然的に、それが生み出す「行い」によって明らかにされる。神は、私の心の行動(言葉・態度・行為)を克明に記録される。私が、主イエスの精神(心)と同化して、どれ程に生きたか、と言うことなのである。主イエスの精神は、父なる神の憐れみと慈しみである。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」ヤコブ2・13)主イエスの精神(心)を持って生きる事が、最重要に思われる。 † 独りよがり。 私達は、何ものにも煩わされず、自由に生きる事を求める。思わしくない様々な関わりから自由でありたい。それが、罪深い人間の本能的願望だろう。裏を返せば、人は孤島に一人で生きているわけではない。実は、あらゆる関係の中で、人々の中で、この地域に居る。真実には、どの様な姿勢が求められているか? 聖書の求める原則は、私達を「井の中」に閉じ込めるのではなく。「大海」に出て、生きることである。人間世界に関わって「神の国」を拡めて行く事にある。その姿勢の中に「真理の自由」が与えられる。神の愛と、聖霊の働きを信じて、前向きに関わってゆく自由である。独りよがりな自由は、自己保全的な「井の中」に留まり続ける。自分に都合の良いことだけを求める生き方を、憎むことは人として、正常である。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」ヘブル13・13)主イエスと同じようにする(生きる)これ以外に、残されている道はないと思う。
「霊的な同化」(6)
「霊的な同化」(6) † 一心同体。 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」エペソ5・31)神の御前で、誓約された結婚の、祝福の真意が述べられる。一心同体という言葉は新約聖書で4回用いられている。その中に「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです」1コリント6・16-17)私達は、生きている限り「煩悩(欲望)」が、つきまとう。通俗的には、性欲と物欲であり、遊女は、その象徴である。人間は欲望と一心同体として生きている。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」エペソ2・3)しかし今、私達はキリストにより、滅びから救い出された者として生かされる。求められる事はただ一つ「主と交われば、一つ霊となる」主イエス・キリストと一心同体になる事である。主なる神であり、父である神に、自ら近づいて交わる事である。それを怠れば、必然的に、欲望の力に同体とされるのだ。クリスチャンは危うい現場(この世)に居る、ということを、肝(キモ)に命じるべきである。 † 希望の中に生きる。 すべての人が知っている事は、人生の悲哀である。不遇の中におかれ、報われない中に生き、長い年月を生きても、思うようにすることが出来なかった。そのような悔いを背負っている。その結果、神も仏もいない、と失望の中に生きる人が大勢いる。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」ロマ15・13)ここに、人間の生きる源泉は「溢れる希望」であることが宣べられている。現実の喜びと平和に溢れることである。「希望の源である神が(共同訳)」希望に溢れさせる。しかも、永遠の世(天国)にまでも確固として結びつける希望である。この世の富を持ち、人間の欲望を満たしても、虚しさが襲い、死の恐怖に追いかけられる。今こそ、中途半端な生き方を止めよう。真実な希望の神から得られる、あらゆる喜びと、平和に満ちる、信仰の祝福の中に立ち上がろう。
「霊的な同化」(5)
「霊的な同化」(5) † 聖霊に仕える。 仕える(奉仕)のことを、ミニストリーと言う。人や地域や社会に対する奉仕(仕える)ことである。私達は知っている「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」ヨハネ5・17)と言うことである。教会での交わり、信徒同士の交わり、私達クリスチャンと共に、主イエスは働かれる。百人の中で、私一人がクリスチャンであっても、主イエスは働かれる。聖霊の働きは、教会のみではない。大事なのは、主イエスを信じる者が、未信者の中で聖霊に仕える事だと思う。最もやりやすいのは、教会内でのミニストリーである。キリストを信じていても、キリストのようではない未熟さに纏われているのが私達の現実である。聖霊はその様な一人一人に、愛を増し加え、力を増し加えられる。これまでの人生で、大きな痛手や、失望に傷つき、引きづられて生きているクリスチャンもいる。聖霊は、そのような人に仕えられる。聖霊は、父なる神の深い愛と憐れみで、傷ついた心を癒される。聖霊は、御子イエスの御業と力と、血潮の聖さによって、人間に対する悪魔の力を打ち砕き、身体の病や痛みを打ち砕かれる。私達は、そのような聖霊に仕えて奉仕する。そのような聖霊の働きと力を知った者が、より聖霊と同化し、仕える事が出来るだろう。 † 必要な間(マ)を持つ。 可愛い幼子達が、大勢周りに居る。自分の得意技の一つは、幼子と親密になれることである。幼子を可愛いと思わない人は、幼子も顔を背ける。幼子の性質によって、距離を置きながら徐々に近づいて少しづつ関係を築いてゆく。そして完全な親愛を持てるに至る。無理に近づいて関係が崩れてしまうこともあるからだ。我が家には金魚が飼われている。新しい金魚を水槽に入れた時、しばらくは、近づくと逃げ去る。エサを入れても隠れる。2ヶ月くらい経つと様子が変わってくる。水槽に近づくと金魚が寄ってくる。直ぐには通じなくても、間(マ)を持って続ければ結果が出て来る。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。・・・」ヤコブ4・8)神に近づく回数を増やせ、と言うことだ。間(マ)を置くごとに、二心を捨て、心清くして、神に近づけば、神も近づき同化される。
「霊的な同化」(4)
「霊的な同化」(4) † 神からの私達。 日本は、無神論者の国、あまたの偶像の国である。所が聖書を通してならば、この日本は神のものである。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」ロマ5・8)主イエスは、日本人を、死を持って愛する事で、ご自分の民とされているのだ。全く新しい視点を私達は持つ。毎日、念仏を唱える人も、信仰に何の興味も抱かない人も、神の愛に覆れている。クリスチャンだけが、神と同化しているだけではない。今、罪人である同胞の日本人も「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)ということは真実である。神の愛に生きる私達に望まれている事は、同じ神の愛を注がれている未信者を、慈しむ事である。神にあっての私達は、神に愛されながら、罪にある同胞を、同等として愛し、敬うことである。神は被造物として、私達人間をお造りになった。神は、御子に肉を纏(マト)わせ、世に送られた。被造物全てを贖われるためである。同化を望まれる神なのだ。 † 全き同化への道。「全き同化への道」 もちろん、主キリストとの事だが、そんなことは実際にはあり得ないように思える。しかし、霊的にはありえる。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・5-6)霊的立場では、完全にキリストと同化している。残ることは、私達が肉を持って、地上で生きていることである。「肉」こそは、聖霊の敵として「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」ロマ8・13)その対処法は「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」 ガラテヤ5・24)もっと的確に言えば「キリストと共に(私は)十字架につけられた」ガラテヤ2・20)であり、今日も今も、私は死に続けているのである。これは驚くべき霊的、具体的な真実であり、キリストとの全き同化をもたらすものである。「・・・・キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」 ロマ6・5)神の御業をほめたたえる。
「霊的な同化」(3)
「霊的な同化」(3) † オーバーラップ。 「二つ以上の要素が重なり合うこと」信仰(信頼)の中に、生きる私達は、目に見えない霊なる神を知る。御言葉は「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」1コリント6・19)ここでは明確に神の所有物なのである。主なる神がオーバーラップして下さっている。この事実が、感覚的に実感がなくても、神との同化がされているのである。私達は、この事実を受け容れ、告白し宣言する事によって、神(聖霊)との同化は強固になる。そして驚くべき聖霊のオーバーラップを知るようになる。聖霊は私達の中に在って、主イエスの御業を現実に現される。端的に言えば、悪霊を追放される。祈りに答えて奇蹟を起こされる。目の前に居る病いの人を癒やされる。明らかに「生けるキリスト」が現実にオーバーラップされるのである。畏れ多いことである。罪を赦した方(神)が、ゆるした者(罪人)を友とされるのである。「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ」ヨハネ15・15) † 変わらないものこそ。 時代の流行に、同化して行く事は、快感かも知れない。若きころには髪型さえも「慎太郎刈り」「裕次郎刈り」それに白いハンチング(帽子)をかぶった。外側のものは変わり続ける、とどめることは出来ないものである。要するに同化は瞬間的である。それを適度にクリスチャンらしく楽しむのも良い。それと同時に、変わることのない、最も私達を喜びと祝福に導く、まことの自由に同化してゆきたい。パウロはこう言う「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」ピリピ3・11-12)パウロは、国を治める大統領よりも、キリストと同じ様になることの、偉大さを言っているのである。人間の成せる地上のいかなる業(生き方・事業)に勝る、最高峰の業が、キリストご自身であることを、見たのであり、知ったのだ。さらに、キリストを得よ。キリストを知れ。それに勝るものは、世にはないからである。
「霊的な同化」(2)
「霊的な同化」(2) † 通じるもの。 「至誠通天」極めて純粋な真心は必ず天に通ず。という中国の孟子の言葉である。私達には、この上なくありがたいことは、天に義なる、聖なる神がおられるということである。即ち、私達の真心に対して速やかに応答して下さる真実な神であられる。それにしても、私達は常に、純真な真心であろうか? すごく打算的であるのではないか?主イエスは、私達がどれ程のものか、良くご存じである。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」ヘブル7・25)この意味合いの中に「私達が完璧だから」というニュアンスがない。純粋とは言えない、私達を知って、とりなして下さるのである。御子イエスは、天の父に、純真な真心で近づかれた。私達にもそのように求められている。しかし、そのようではない私達を、主は、執り成して、天(神)に通ずるものにして下さる。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」ヘブル10・19)「聖所に入る」とは、聖なる神と同化することである。それを成し得るのは、真心から捧げられた主イエスの血潮なのである。ハレルヤ! † 引きよせる。 主イエスほど、多くの人を引きよせられたお方はいない。今も多くの人が引きよせられている。それほどに主イエスには魅力があるからだ。その魅力とは、真実に一人一人の事を知り尽くして愛しておられるからである。その愛とは、その人の必要に対して、与える全てを持っておられるからだ。人間の引きよせる力も、同じようである。見せかけのない、思いやりや、親切が常に隣人に注がれているとき、隣人はあなたを無二の友として結びつく。引きよせる力を持つ人は、徹底的に変わらない信念を持つ。その方(隣人)を信頼し、信じる。「この方(隣人)は、私と親しくなる」と、揺るがず「そのようになる」と思い続ける。さまざまな違いを超えて、現実は変えられる。自分の心に思い描いたように、素晴らしい関係が出来てくる。私達の信仰は、神のみを信じるだけではない。人と人の繋がりを創り出す愛と信頼の、引きよせの法則(信仰)を喜ばしく用いるのである。
「霊的な同化」(1)
「霊的な同化」(1) † 神の御業による。 同化「assimilation」は、用語として心理学的、言語学的、社会学的、生物学的分野で用いられている。無いのは、霊的な同化という分野である。既存の四つの分野を総合しているようなもの、それが霊的な同化のように思える。霊的とは、自らと神との直接的な関係であり、その関係から生みだされるのが、同化作用である。神の測り知れない愛と御業が、私達に及び神との同化に進ませる。霊的という意味の大きな部分は「神に同化する」事だと心得る。クリスチャンとは「キリストのような人」日本では「耶蘇(ヤソ)」と言われた蔑称(ベッショウ)である。それほどに聖書に即して生きているから言われた。それは、何よりも神の愛と御業が、人をキリストに同化してしまうゆえに、必然として現れる。神の栄光が、人(私達)を通して現されるのである。一方、もしキリストに同化されていないならば、信仰は不自然な現れ方をするしかない。人間が神を採り入れようとする信仰は根本的に誤っている。私達は神に愛され(捕らえられ)神のもの「神の子供」とされ、神の所有となる。自分を神に明け渡して、初めて神と同化する。これが霊的な一体であり、生命の溢れる信仰である。 † なりたい人になる。 自分が、なりたい人を持っているか?あるいは望んでいるか?と言うことは非常に重要である。「イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」マルコ10・51)身体上の問題だけではなく、神にあって何を望んでいるのか?と言う事である。私には憧憬(ショウケイ)する偉大な先人が大勢いる。彼らの信仰と霊性に追いつき同化したいと願っている。今は、まだ到達していなくても、願いがあり、求め続けるならば、神の霊はそのために私達を導く、そうして願わしい自分に到達し、願いと同化する。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」マタイ7・7)神はあなたのために助ける事を喜びとされる。私達の使命は、執り成し祈りつつ、キリストのすばらしさを求める事。そして、神の子供として広げられる可能性を求めることである。その意志がない人は、まことの老人である。
「信のまこと」(7)
「信のまこと」(7) † 聖書の信仰と日本人の信仰。 完結の章を迎え、どうしても触れなければならないのが、聖書の信仰[ギ]ピスティスと私達の信仰の内容である。信仰を新約的に言えば「信頼の服従」である。ドイツ語の信仰(Glauben)は「誓約・忠誠」を意味している。この重要な信仰の内容は、肉的な主知主義的な解釈が加えられ、内容を失ってきた。私達が信仰と言って受け容れている信仰は、新約聖書の信仰と違っている。信仰[ギ]ピスティスは、文字通り「信頼の服従」であり、全体的な自己献身の人格的応答である。日本人の場合は「信仰」とは、心の中に信じるもの(神)を受け容れる事である。ここには、全体的な服従も献身もない信仰なのである。御子をも惜しまないで与えられる愛の神に、完全な依存をするのが「ピステス(信仰)」なのである。ここに「真理の自由」が生まれる。明日のことなど思い煩わないし、自分は神に服従して失敗することなどあり得ない。と知っている服従である。信仰の重要性は、自発的で強制されない「信頼の服従」である。神の愛は無条件的に注がれている賜物である。「ピステス(信仰)」は、与える神への、無条件的な神の御人格に対する「信頼と服従」である。この信仰によって、初めて永遠の生命の中に解放されるのである。 † 人がやらなくてもやる。 人との愛の交わりを第一とする教会だが、人と同じであればよいという意味ではない。より神の懐に憩い、与えられた恵みと主の香りを分かち合うのである。人間は毎日多くの成すべき事がある。それだけで満足する人もいるだろう。夕方には疲れ切ってしまう人もいる。世の中の要求は容赦ないが、私達には目ざめた魂がある。主なる神を呼び求め、叫ぶ力がある。「この方こそ、われらの神、主。そのさばきは全地にわたる」詩105・7)近くの人から、遠くの人へ。近くの事から世界の事へ。主の下僕として叫び、執り成し祈るのだ。「神にとって不可能なことは一つもありません」ルカ1・37)聖歌231番「嬉しきこの日よ心を定めて、救いの君よと、御子をば仰ぎぬ」嬉し、嬉しこの日ぞうれしき。・・・・」兄姉の中で、誰もやっていないかも知れない。あなたは「信(まこと)」を失わず、続けて行って欲しい。