「揺るぎない世界をつくる」(6)

「揺るぎない世界をつくる」(6) † 鬱(うつ)的世界。 鬱(うつ)という心情の苦しみは、ある人には縁のない話かと思う。だが、ひとたび鬱の世界に陥ると、世界は一変する。鬱の原因は究明されてはいない。そのような中で、うつ病患者は情動行動を制御する神経伝達物質(神経細胞間の情報伝達に用いられる分子)のなかのセロトニンやドパミンの機能低下が関与している可能性が示唆されている。セロトニンは心を落ち着かせ、ドパミンは活動性を高めて楽しみを感じさせるとされている。さて、揺るぎない世界に生きていたとしても、鬱に捕らわれる事も起こりえる。キリスト信仰があっても、人間である以上、鬱にも遭遇する。「老人鬱」と言うものもある。ある時期(70才を過ぎて)体験したことは、言葉に現せない「虚しさ」の心情に支配されたことだった。キリストの福音によって、揺るぎない世界に踏み入っているのに、肉体にある私は、言い知れぬ不可解な思いに悩まされた。大きく環境が変わったのでも、大きな事件が起こったわけでもない。一つ思い当たる事がある。自分が自負する存在を無能化され、用無しのように見下されたと感じた時「肉なる自己」は、行き場のない鬱の心情に落ち込みやすいという事だ。主に在って、とてつもなく強く、また弱い自己なのだ。  † 神の世界を実現させる。 これは不可能なことである。しかし、ペテロが不可能な水の上を歩く事を可能とした。その秘訣は、神の約束の言葉を、とり付ける事であった。「・・・・私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14・28)私達も神の生ける御言葉を、とり付ける事が出来れば、神の世界を実現させることは可能である。だいそれたことだが、主キリストは「望んでおられる」のだ。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです」ルカ・17・6)私達にとって、これほどの喜びはない。主イエスを識った者であること。次に、信仰を識った者であること。そうして、次のことがあるだけだ。条件を満たして、私が「言う」ことなのだ。神の世界は、私の「言いつけどおりになる」のである。これは信仰の極意である。そこにまで到達したいと、主を賛美し喜び踊る思いでいる。

「揺るぎない世界をつくる」(5)

「揺るぎない世界をつくる」(5) † 実感している世界。 人間が機械のように操作されて、造り変えられると、特殊な目的のために生きるようにされてしまう。マインド・コントロールとは、そう言うものである。自分の自由意志や選択権を失い、コントロールされている世界に、全てを献げてしまうのである。その手段は最先端の科学的で、心理学的な高度な方法であり、段階的に行われるという。要するに「カルト」である。世界制覇をもくろむ、集団「破壊的カルト」もある。基本的な人格と人権を、完全に従属させられる、奴隷状態と言わざるを得ない。しかし、本人には理想の世界に生きているという感覚であり、それ以外は「悪」の世界であると、決定ずけられているという。脱会したり、挫(クジ)けることは地獄に落ちる事に決まっているのである。この巧みさがマインド・コントロールなのだ。私達の信仰はそう言う本質はない。信教の自由の中で、私はキリストを救い主と信じたし、強制されて、あるいはコントロールされて、教会に縛られてはいない。完全な自由と権利の中で、神に仕えることを選び、兄弟姉妹との交わりを、喜びとしているのである。  † 神が創り換える。 19才で聖書を読み出した。当然キリスト教全般を知りたいと思った。当時は社会的である事と、科学的である事が私の関心であった。罪からの救いのみで、人生の問題全般は解決しないと考えていた。要するに、私自身の問題意識が中心にあって、その解決が聖書から、どの様に与えられるに関心があった。私が、神に創られた神のもの、という世界は見る事が出来なかった。しかし、神はイエス様をとおして、私の世界を創り変えて行かれた。この世界に生きるための信仰が、神の御心と永遠の世界に、生きる事へと換わってきたのである。たぶん、日本人なら誰もが同じような過程を通るのでは?それで、世捨て人になったのか?よりこの世界を愛せるようになった。この世に生きる意義も与えられるのだ。神の慈しみは、私達の魂をキリストの心と信仰に、創り換えて、神ご自身を示して下さるのである。そのように、知れば、知るほどに、驚きよろこび感謝でしかない。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1・21)誰でも、このパウロの実感を得ている。

「揺るぎない世界をつくる」(4)

「揺るぎない世界をつくる」(4) † 捨てたら世界が出来る。 聖書的用語には、罪を離れる。罪を悔い改める。罪を捨て去る。がある。一番強い印象は「罪を捨て去る」で、罪の世界との絶縁の意味を持つ。新しい生活は、罪との絶縁が必須であり、神の国と義は、その場所に成り立つ。さらに、揺るぎない世界のために前進がある。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・」ピリピ3・9)ここでは、新世界(主イエス)を知っているすばらしさのゆえに、一切のことを、ちりあくた(糞土)として、惜しみなく、捨てることが出来るのである。人格的な主イエス・キリストを知っている事。それは、永遠の生命を与えられ、復活の栄光を与えられること、それは永遠に、直接にキリストと交わりを与えられることである。私達に与えられている信仰が、神の愛の御業(主イエス・キリスト)を知る方法(道)である。幾らかでも主イエスを知っているなら、勤勉と熱愛を傾けて、主に近づこう。地上のものが「ちりあくた」となり、捨て去るまで。主イエスは豊かに導かれる。  † 永遠の生命は不可知ではない。 永遠の生命について「明確な確信」があって、クリスチャン生活は成り立つのである。確かに感覚的に実感出来るわけではない。トマスのように、復活されたイエスの脇腹の傷、手にある釘の傷に触れる事はないであろう。主は言われた「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」ヨハネ20・29)不可知論者とは「永遠の生命に関して、私はなにも知っていない」というクリスチャンや指導者のことである。全てが、ばく然のままなのだ。揺るぎない永遠の生命こそ、福音の中核、キリスト信仰の土台で確実な真実なのである。「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」ロマ8・39)私達の永遠の生命は、何ものも、死でさえも、神の愛から引き離せない。キリストの人格的な愛の交わりが、永遠であり、永遠の生命なのである。この確実性は希望となって私達の内に生きている。「死は勝利にのまれた」1コリント15・54)として。

「揺るぎない世界をつくる」(3)

「揺るぎない世界をつくる」(3) † 揺るぎないという事。 旧約聖書では、神がダビデを「揺るぎない王」とされた。2サムエル5・12)と、記している。また、息子ソロモンも「私を揺るぎないもの」として、ダビデ王の王座に就かせ、1列王2・24)と言っている。これらは、神の後ろ盾があっての出来事であることは、言うまでもない。主なる神によって、造られるものは「揺るぎない」と言う事である。「安全で確かな錨」ヘブル6・19)は、神がキリストを通して創設された、私達への永遠の希望を保証するものである。神が創り出して下さるものは、王であれ、王国であれ、希望であれ、信頼であれ、揺るぎない性質を持つ。それが、私の中の出来事であるなら、私の中に生まれた、神の世界なのだ。これから、世の中と渡り合って生きてゆく時には、主イエスが植え付けて下さった、御言葉(真理)によって生きるのである。神(真理)の価値観こそ、揺るぎない私達の道だからである。この道からブレないで、神であり主あるイエスを崇め、従う事が、揺るぎない強さを生みだすのである。神に頼るという弱さこそ、最も強い者にするからだ。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」2コリ12・10)  † 人間の盲目度。 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです」2コリ4・3)おおいが掛っている、とは見る事が出来ないという事。次節では「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」とある。私達クリスチャンも、世の価値観を人生に受け容れて生き続けると「おおい(覆い)が掛る」その結果、キリストの栄光(福音の光)が、ぼやけ、霞(カス)むのである。神から、何を聞いても、言われても悟れず、神が見えない盲目度は深く、大きくなる。人間の本当の盲目については主イエスが語られている。主の御名を信じない人々に対して「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである」 ヨハネ12・40)

「揺るぎない世界をつくる」(2)

「揺るぎない世界をつくる」(2) † 決定される事。 その人の明確な方向性が示されて、素晴らしい決断がされているので感動する。所が違った課題になった時、その方向性が姿を消しているのだ。なぜなのか?聖書は、神の健全な教えと敬虔(神聖)を生活全般に適用する事を求める。これは厳しいのではなく、サタンとこの世の誘惑と罪から守られて、揺るぎなく私達が満ち足りて生きるためである。そのために一貫した方向性(決断された決定)が、信仰の人生なのである。例えば、地域の人間関係の中で、家族の中で、教会生活の中で、方向性が同じである。賛美を献げることも、犠牲を献げることも、同じ方向性に従うのである。これが、ぶれていない、方向性が一貫している事が健全さを示すのである。私達の常にある問題は、神に聞き従うか、自分の思考と都合に従うかである。この事で、私達は明確に決断し、決定する事が求められる。神のしもべならば「・・私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意・・」2テモテ6・3)することである。神と伴(トモ)にある、満ち足りた、喜びの生活を願うならば、神に喜ばれる一貫した方向性を決定することである。実は、それがクリスチャンの義務なのである。神への忠実さとは、健全な御言葉への誠実さなのである。  † 主イエスの世界と私。 主イエスのお働きは、世界中のすべての神の子供達、一人びとりの中に、ご自身の世界を築かれることである。なんと驚くべき巨大な世界であろう。神の似姿である人間にしか与えられない。パウロや、ヨハネやペテロは、固有の存在だが、私もその一人である。パウロの中に主イエスが、ご自身の世界を築かれたように、私の中にも、主はご自身の驚くべき世界を築いて、さらに大きくし、高くし、広くして下さっているのである。主イエスが見ておられる世界を、私は自らの世界として与えられている。いち早く、主イエスに実存し(依存して)生きたならば、いち早く主イエスの世界を与えられ、主イエスの世界のすばらしさを賛美し、父なる神を崇めたに違いない。幸いな事は、誰でも、心を開き、キリストに留まる人には、キリストの世界が、その人の中に築かれるのである。この世に在りながら、主イエスの世界を知り、見て喜び、神の子の特権に驚き、感謝するのである。