「揺るぎない世界をつくる」(3)

† 揺るぎないという事。
 旧約聖書では、神がダビデを「揺るぎない王」とされた。2サムエル5・12)と、記している。また、息子ソロモンも「私を揺るぎないもの」として、ダビデ王の王座に就かせ、1列王2・24)と言っている。これらは、神の後ろ盾があっての出来事であることは、言うまでもない。主なる神によって、造られるものは「揺るぎない」と言う事である。「安全で確かな錨」ヘブル6・19)は、神がキリストを通して創設された、私達への永遠の希望を保証するものである。神が創り出して下さるものは、王であれ、王国であれ、希望であれ、信頼であれ、揺るぎない性質を持つ。それが、私の中の出来事であるなら、私の中に生まれた、神の世界なのだ。これから、世の中と渡り合って生きてゆく時には、主イエスが植え付けて下さった、御言葉(真理)によって生きるのである。神(真理)の価値観こそ、揺るぎない私達の道だからである。この道からブレないで、神であり主あるイエスを崇め、従う事が、揺るぎない強さを生みだすのである。神に頼るという弱さこそ、最も強い者にするからだ。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」2コリ12・10)

 † 人間の盲目度。
 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです」2コリ4・3)おおいが掛っている、とは見る事が出来ないという事。次節では「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」とある。私達クリスチャンも、世の価値観を人生に受け容れて生き続けると「おおい(覆い)が掛る」その結果、キリストの栄光(福音の光)が、ぼやけ、霞(カス)むのである。神から、何を聞いても、言われても悟れず、神が見えない盲目度は深く、大きくなる。人間の本当の盲目については主イエスが語られている。主の御名を信じない人々に対して「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである」 ヨハネ12・40)

「揺るぎない世界をつくる」(3)