「揺るぎない世界をつくる」(2)

† 決定される事。
 その人の明確な方向性が示されて、素晴らしい決断がされているので感動する。所が違った課題になった時、その方向性が姿を消しているのだ。なぜなのか?聖書は、神の健全な教えと敬虔(神聖)を生活全般に適用する事を求める。これは厳しいのではなく、サタンとこの世の誘惑と罪から守られて、揺るぎなく私達が満ち足りて生きるためである。そのために一貫した方向性(決断された決定)が、信仰の人生なのである。例えば、地域の人間関係の中で、家族の中で、教会生活の中で、方向性が同じである。賛美を献げることも、犠牲を献げることも、同じ方向性に従うのである。これが、ぶれていない、方向性が一貫している事が健全さを示すのである。私達の常にある問題は、神に聞き従うか、自分の思考と都合に従うかである。この事で、私達は明確に決断し、決定する事が求められる。神のしもべならば「・・私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意・・」2テモテ6・3)することである。神と伴(トモ)にある、満ち足りた、喜びの生活を願うならば、神に喜ばれる一貫した方向性を決定することである。実は、それがクリスチャンの義務なのである。神への忠実さとは、健全な御言葉への誠実さなのである。

 † 主イエスの世界と私。
 主イエスのお働きは、世界中のすべての神の子供達、一人びとりの中に、ご自身の世界を築かれることである。なんと驚くべき巨大な世界であろう。神の似姿である人間にしか与えられない。パウロや、ヨハネやペテロは、固有の存在だが、私もその一人である。パウロの中に主イエスが、ご自身の世界を築かれたように、私の中にも、主はご自身の驚くべき世界を築いて、さらに大きくし、高くし、広くして下さっているのである。主イエスが見ておられる世界を、私は自らの世界として与えられている。いち早く、主イエスに実存し(依存して)生きたならば、いち早く主イエスの世界を与えられ、主イエスの世界のすばらしさを賛美し、父なる神を崇めたに違いない。幸いな事は、誰でも、心を開き、キリストに留まる人には、キリストの世界が、その人の中に築かれるのである。この世に在りながら、主イエスの世界を知り、見て喜び、神の子の特権に驚き、感謝するのである。

「揺るぎない世界をつくる」(2)