「入れ換える」(7) † 換えた生き方。 変わったでも、代わったでも、替わったでもない生き方が、換えらた生き方だと思う。元に戻れない「入れ換え」がされてしまった。という意味で、とてつもなく喜ばしいことなのである。これは「私の福音」であり思想であり、哲学でもある。この思想と信仰はもともと聖書に明確に書かれていることで、何も独自のことではない。信仰という内容の幅が広いので「キリストを救い主として信じる」という言葉が信仰の公称となる。私は「換えられた」という意味を信仰に持ち込んでいるのである。「・・・・私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・・」ガラテヤ2・20)ユダヤ教にも、イスラム教にも、仏教にも、もろもろの宗教にもない、新しい人間の「様(在り方)」が、唯一、ここにある。神の御心は、御子の十字架に、使徒パウロと同じく、私をも完全に十字架につけられた。何が換わったのか「キリスト我にありて生き給うなり」 に換わったのである。死んだ者が元に戻れないように、十字架に死んだ者の中に、キリストが生きられるので、キリストの信仰の中に生きられるのである。 † 世界は入れ換わらない。 もの凄く否定的な表現が聖書にはされている。「・・・・全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」1ヨハネ5・19)日本のみならず某国のみならず、全世界は「悪い者の支配」の下に置かれているという。最善で悪のない全能の神は、この悪の世界に打ち勝つ「善」を行われた。それが永遠の定めをもたらす、超大な神の業としての、神の受肉、十字架の罪の身代わり、永遠の勝利としての復活であった。これからも地球には未曾有の大災害、悪の憎悪に満ちた覇権、遂には互いの愛が冷えてしまう。「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」ルカ18・8)主のご心配は、再臨の時に「神への全き信頼を保つ」という信仰があるのか?と言う事である。この世の者であった私達だが、今は「神の御国の生命」の中に、入れわっ換わったのだから、どんな時にも信仰の火を燃やし、備えの油を絶やさず「イエスから目を離さない」ヘブル12・2)ことである。
「入れ換える」(6)
「入れ換える」(6) † キリストの花嫁。 花嫁になるには、一人の夫となる花婿のために、添い遂げる覚悟が出来ていること。即ち、夫以外の愛の対象を排除し、潔く備えることである。花嫁が、これを堅苦しいと感じるようならば、結婚生活は相当に困難である。「・・・・私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです」2コリント11・2)この御言葉は、地上の男女の結婚を否定しているのではなく、地上の男女は、キリストの花嫁となるように想定されている事を現わしている。地上の結婚生活は、天上での婚姻の前味として尊い要素を含んでいる。その生活で傷つき、苦しんだにしても、大きな価値に繋がる。私達は悲しみや痛みを、キリストの血潮に癒やされて、潔い者にされる。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである」默19・8)主なる神を崇め、主イエスに従う生き方が、正しい行いである。全ては、天上での婚宴に招かれる花嫁になることである。キリストに真実ならば、真実の花嫁に換えられる。 † クラウド(雲)。 例えば、牧師が聖書の註解書50巻を購入すると、大きな書棚を用意しなければならない。別の註解書や様々な辞書を揃えると書籍に囲まれることになる。費用も膨大で、特別な収入でもないと必要な本が買えない。このような出版物が「紙」から電子データーとなって、インターネット上の「クラウド・サービス」に載せられている。主に、英語版であり、日本語版の註解書が電子データーになっているのを、まだ聞いていない。この様な、入れ換わりは、近年の大きなメリットを教会にもたらしている。電子化された本は紙媒体の書籍の五分の一になる場合もあり、貧しい牧師にはありがたいことになる。何十冊分のデーターを用いていて、クラウド仕様になっている事を知らない事もある。実は机上ではなく、クラウドの中にあって動いているのである。「クラウド」 は見えない。同じように、私達の全能の神も見ることは出来ないが真実である。「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン」 1テモテ1・17)
「入れ換える」(5)
入れ換わり(5) † 神の神聖に置き換わる。 神の質と人間の質は同じではない。私達は主なる神に圧倒的に愛されているのだが、神の質と同じになる事ではない。神の子とされる特権を持っているが、神と私には明確な「質的差」がある。この理解が「恐れとおののき」を、私の中に生みだすのである。驚くべきは神の御心である。「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました」2ペテロ1・3) 生命と敬虔(神聖)が「主イエスの神としての御力」で、既に与えている。と宣言している。その第一は信仰なのだが「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」エペソ2・8)わかることは信仰も、神からのものなのである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です・・・・」2コリント5・17)神の神聖(質)は虹のような七つの色彩の輝きをクリスチャン人生に加える。そのために主イエスに依り頼む生活を求められる。神の御心は、あなたを主イエスに似た人にする事であり、新しい力を 与えられた人として、生きることである。 † ふさわしい家。 独身生活では一部屋でも過ごせるが、家族を持つとも成れば、部屋数のある家に移り換える必要がある。また、就職や学校のために移住すると、今の環境は置き換わることになる。主イエスは「・・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」ヨハネ14・2)といわれた。主が復活後に行かれる天国に「私達の場所(住まい)」を備えられている。私達は国籍を天に持つ(ピリピ3・20)だけでなく、住まいをも与えられる。その「場所」は愛に満ち、喜びと平和に満ちている「住まい」なのである。わかっている事は「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」マタイ22・30) 私達は天の御使いのように性別に支配されず存在し、その姿にふさわしい場所へと入れ換わる。復活した幾億万の聖なる証人と共に私達は喜び歌い、永遠に御神をほめたたえるのである。
「入れ換える」(4)
「入れ換える」(4) † 入れると元に戻らない。 注意書きに書いてある。「これを入れると元に戻りませんご注意下さい」慣れ親しんだ環境がなくなって、新しい環境に成りますよ、と言うわけである。そんなことが多々あったのがプログラムのグレートアップ(バージョンアップ)である。全体が更新され、新しくなり、進歩しているのだ。しかし、あるものによっては以前のままの方が使いやすいと思う事がある。時代が進むにつれて、セキュリティ(危険や脅威から守るための段取りや手段)が高度に必要になってきている。そうすると古いものを新しいものに入れ換えねばならなくなる。メーカーが古いバージョンのアップデートを中止するからである。何とか別の方策を見つけ出して、今のままで使い続けるようにして行きたい。人間の創り出した物は常に「新しい物への」入れ換えを求める。しかし、人間を創られた主なる神は、信じる者の中に住まわれる。かえって内側からお働きになって、私達を新しい者へ、キリストの似姿に換えて行かれる。キリストに関心を持てば持つほど、誰でも新しくバージョンアップして行くのである。 † 告白、宣言の力。 私達はキリスト者として、使徒達の教えに従って今日を生きている。信じている事を明確に本物にするのは、告白であり宣言だと心に強く留めている。「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」ロマ10・8)もう一つは「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます」マタイ10・32)公に告白されない信仰は、確たるものではない、と思うのである。私の人生の入れ換えは「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2・20)の信仰宣言にある。この「入れ換え」こそが、生きる事の素晴らしい現実だと確信できる。この事を恐れる人の原因はなにか?生きる事が「自分が在ってのこと」と思っているのではないか? しかし、人間は神にあって死んで、生きられるのである。それを与えて下さるのが主イエスキリストなのである。
「入れ換える」(3)
「入れ換える」(3) † 連続の非連続。 「通る」と言うことはいろいろな意味で用いられる。著名な学者に対しても「彼は○○を通っていない」要するに、重要な学説や、人物について未学である事を指して使われる。学者ともなると、多くをマスターして、落ち度のない論理を求められるわけである。学び舎で、教授が特に強く訴えた重要事項が「連続の非連続」であった。幅広く用いられる言葉のようであるが、信仰の内容について語られたように思い出す。私達は生き続ける事を連続しているという。しかし、キリストの救いを信じた時、連続は断ち切られた、非連続が発生した。キリストを知らないで連続して生きていた自分は、十字架の救いを基点に、キリストを知る神の子に「入れ換わった」これが「連続の非連続」である。その儀式が「洗礼式」で「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」ロマ6・4) 「葬られた」とは連続の終わりである。「非連続」の意味がわかれば、新しい歩みを主なる神が導かれるのである。 † 自分でない自分を見る。 これは二重人格の話ではない。主なる神が聖書で約束されている「新しい人」としての自分である。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5・17)このように入れ換えられた自分を「見る」と言うことは驚きである。最たる実例は主イエスである。全き人間でありながら、神であることを生きられた。今や信仰によって、私達も人間でありながら「神の子」という特権を持って生きるのである。そこで大事なのは、主が父なる神に倣って生きられたように、私も主を見上げて聞く事、見る事、行う事、語る事に努め、悟りを広げ、知っていく事である。そのようにして新しい自分を見れるのである。それを一番の務めとして喜びながら、主の知恵を頂き、主の生命と御力を解放し、真理の奥義を教えられ、新しいことをやりだして行く。まさに、老いることを忘れてしまう新しい挑戦である。そして、今まで以上に神の子の特権を行使できると思う。