「入れ換える」(3)

   † 連続の非連続。

 「通る」と言うことはいろいろな意味で用いられる。著名な学者に対しても「彼は○○を通っていない」要するに、重要な学説や、人物について未学である事を指して使われる。学者ともなると、多くをマスターして、落ち度のない論理を求められるわけである。学び舎で、教授が特に強く訴えた重要事項が「連続の非連続」であった。幅広く用いられる言葉のようであるが、信仰の内容について語られたように思い出す。私達は生き続ける事を連続しているという。しかし、キリストの救いを信じた時、連続は断ち切られた、非連続が発生した。キリストを知らないで連続して生きていた自分は、十字架の救いを基点に、キリストを知る神の子に「入れ換わった」これが「連続の非連続」である。その儀式が「洗礼式」で「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」ロマ6・4) 「葬られた」とは連続の終わりである。「非連続」の意味がわかれば、新しい歩みを主なる神が導かれるのである。

 † 自分でない自分を見る。

 これは二重人格の話ではない。主なる神が聖書で約束されている「新しい人」としての自分である。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5・17)このように入れ換えられた自分を「見る」と言うことは驚きである。最たる実例は主イエスである。全き人間でありながら、神であることを生きられた。今や信仰によって、私達も人間でありながら「神の子」という特権を持って生きるのである。そこで大事なのは、主が父なる神に倣って生きられたように、私も主を見上げて聞く事、見る事、行う事、語る事に努め、悟りを広げ、知っていく事である。そのようにして新しい自分を見れるのである。それを一番の務めとして喜びながら、主の知恵を頂き、主の生命と御力を解放し、真理の奥義を教えられ、新しいことをやりだして行く。まさに、老いることを忘れてしまう新しい挑戦である。そして、今まで以上に神の子の特権を行使できると思う。

「入れ換える」(3)