「両刃の剣を握る」(5) † 規制か自由か? アメリカには痛ましい事件が多い。この度の銃による乱射事件である。米テキサス州南部ユヴァルディの小学校で、小学生19人と、教師2人が犠牲になった。銃の規制を叫ぶ民主党と、銃規制に否定的な共和党の対立が、平行線のまま続いている。共和党は保守的キリスト教団体を基盤とし、銃規制に強く反対するNRA(全米ライフル協会)会員数500万人も有力な支持団体としている。設立されたのは1871年の南北戦争直後という歴史の古さである。キリスト教国としての、クリスチャンの役割は大きいはずだ。福音に根ざした論理が影を潜めるようでは、人々は立ち上がる力を失ってしまうだろう。身の安全のための銃の所持が、銃を所持していない、多くの人々の命を奪う絶え間ない事件が社会現象となっている。その原因を「銃が人を殺すのではなく人が人を殺すのだ」と言い逃れるのである。「そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」マタイ26・52)アメリカはいつまで、身を切るもろ刃の剣を握り続けるのか?・・・・代償の余りの大きさに痛みが伝わってくる。 † 霊的な両刃とは。 教会は霊的な実績を求めている。教会の具体的な成長を見ることであり、教会の増殖(セル活動の拡大)である。教会施設以上に福音宣教の実質が重要である。霊的な力が、力ある教会(兄弟姉妹)を生み出し、宣教の実際に至る。第一に、イエス・キリストは神の具体的な力である。第二は、信じる信徒(私達)が、神の力を身に帯びる事である。世の力に対抗出来る証詞力があることだ。私達は、聖書を学ぶ信仰の理解者であるが、それ以上に隣人に福音の影響力を与えるのである。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」1ペテロ5・6)へりくだるとは、私の中にある、キリストの神聖にふさわしくない欲望や、性質を切り取られる事を、神に許可を与えることである。神の両刃に切られるなら、キリストにある、恵と力に満たされる。贈り物として偉大な約束を与えられる。これが力ある霊的なキリストの資質と力とを身に帯びるのだ。
Youtube Live配信について
Youtube Live配信について 新型コロナウィルスの拡大に伴い、自宅での礼拝を可能にするためにYoutubeのLive配信を行ってきました。 しかし、新型コロナウィルスの影響も少なくなっていき、Live配信の必要性が薄れてきました。 6/5をもってLive配信を終了します。 6/12以降は週内にワーシップとメッセージをYoutubeに投稿します。そちらでお聞きください。
「両刃の剣を握る」(4)
「両刃の剣を握る」(4) † どんでん返し。 コロナウイルスによるバンデミックが三年に及んで、未だに終息のめどが立たない。全世界で627万人もの人が亡くなった。人間の文明が進むことによって、地球の自然環境は侵食され、破壊されてきた。自然の環境の中に息づいていた原生ウイルスは、破壊者によって目ざめるに至る。ウイルスの逆襲が人類を襲うわけである。このようなことは、これからも起こることに違いない。人間は被った打撃にはしばらくは静かにするが、またもや欲望に駆(カ)られて動き出してしまうのである。甘い汁を求めることは、両刃の剣となる、自分も大きく傷つくリスクを背負うことだ。オゾン層の破壊現象も、人間の消費文化と利便性を優先する人間の欲望が生みだしたものである。自然環境を侵略すれば、その、お返しが必ずある。日本が、時の勢いにまかせて侵略戦争を起こしたが、その、どんでん返しは、いかほどに大きな代償であったか。ロシアのウクライナ侵攻によって、どれ程の代償を負わなければならないか見物である。 † 車輪は回転する。 車輪の頂点にある所は、一回転すると最も低い位置(下)になる。その逆も然りで、最も下にある所は頂点に達する。世の中を見渡せば、このような現象が人生に起こる出来事だとわかる。「私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た」 伝道10・7)賢いソロモン王はこの現実を見て、戸惑いを感じたのだ。第一に不条理過ぎる。しかし、現実に、ずる賢い者が世の中の高い地位について、時代のために有能な人が、かえって日陰の目立たない所に置かれる。だが、全世界の神であり全能者は、時が満ちるまで、ご自分のしもべである私達の中に働いて、ご自身を現される。まことに、神に選ばれた私達が、王として、祭司として「神の国」を築き上げているのである。間もなく、王の王のキリストが王座につかれる。そのために、私達はキリストの来臨に備えているのである。今や栄華を誇るサタンの支配も、終わりに近いのだ。私達は、キリストに義とされた兵士でもある、聖なる武具を身につけ、惜しみない名誉と価値を与えられ、信仰に立って歩みを続けている。そして、神の摂理の車輪は確実に頂点に向かって動き続けているのである。
ファミリーディ
ファミリーディ 6/5(日)は家族みんなで楽しめるファミリーディです。 メッセンジャーに名古屋キリスト教会パークサイドチャペル牧師の小池牧雄先生を来ていただきます。 日ごろの感謝をこめて、既婚男性の方にはスモークチーズをプレゼント!! 礼拝は普段と違い10:30からの1回となります。 小学生のための特別なプログラムも用意しています。 礼拝後には屋台やゲームコーナーがあります。 ぜひ、家族みんなでお越しください。
「両刃の剣を握る」(3)
「両刃の剣を握る」(3) † 刃を砥ぐ砥石。 「研(ト)ぐ」目的は鋭く切れるようにすることである。両刃であっても研がれないと切れない。包丁でさえ刃先が摩耗(マモウ)すれば、切れないことにイライラする。木を切る鋸(ノコギリ)も同じで、扱いを知らない人が無理をして使ったり、刃先を痛めたりすると、真っ直ぐに切れず歪んでしまう。本職の職人は常に手にする道具(鑿(ノミ)、鉋(カンナ)、鋸)などの切れ味を鋭い状態にしている。鋸は専門の研ぎ屋(目立て職人)に委せるのが普通である。それほどに高度な技術を要する。カンナやノミは砥石を持って研ぎ上げる。鋼(ハガネ)の硬さや性質によって、刃先の仕上げ方がある。このことから学べることは、主なる神は、個々の私達を「研いで」鍛えて、建て上げられる「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」ヘブル12・11)人生を神に研がれて鍛えられ、役立つ者にされるのである。その人の信仰は切れ味鋭く、その人は暗闇を切り裂く福音の使者とされる。 † 自らが切られる。 切られる。と言うことは怪我をする、または痛いという事だ。しかし、切られるとは死を意味するのではないか? 私達は聖なる神を信じる。また、神の義(正しさ)を信じる。このことは必然的に、神に似るように求められる「それは『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです」1ペテロ1・16)そうすると、私の内容のふさわしくない部分は「切り取られる」対象である。私の肉の性質がありのままであり、私の内容に悪魔の要塞となる部分があるならば、私は聖でも義でもない。神の愛を、十字架の赦しを隠れ蓑(ミノ)にしているに過ぎない。このことに気づいて覚悟した。自らを晒(サラ)して現そうと。神の聖と義の両刃の剣に切られることを受け入れたのである。それが私のキリスト信仰の内容になった。十字架と復活と聖霊の力の福音が、私とオーバーラップ(重なり合う)自然体が生みだされてきた。国籍を天に持ち、今は地上で福音を喜び、楽しみながら生きる事を赦されている。主なる神の幸いなご計画に感謝し、御名をほめたたえるのである。
「両刃の剣を握る」(2)
「両刃の剣を握る」(2) † 懲らしめられる幸い。 母の日である。母は子を教え諭して、賢く育てる。「彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す」箴言5・23)懲らしめがない、とは、叱られたことがないほどに甘やかされ、心が成長していない子供のことである。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12・5-6)私達が教会に集う目的は、年令に関係なく、神の子供として、聖なる父(神)から訓戒(懲らしめ)を受け、世の中の罪悪の力に屈しないで、正義を重んじ人々を愛する生活をして行くためである。母は賢く我が子の心を見抜いて、正しく叱り、愛情を注いで勇気を持たせてくれる。神は、聖書の言葉を通して、全ての人に自信と力を与え活かして下さる。このように人生を切り開き、知恵と知識の鋭い両刃の剣を握る者となる。母が聖書に従い、子を育てることは、最高の人生を与えることである。 † 慈しみと厳しさ。 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです」ロマ11・22)「慈しみと厳しさ」は、相対する言葉だ、まさに鋭い両刃の切れ味を感じる。私達が受け取った、神の慈しみの中に留まり続ける限り、神の厳しさに切り落とされて、倒れることはない。私達は、神の御言葉を軽んじないよう注意しよう。「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」出エ34・6-7)父は私達に憐れみと、恵みを千代までにも与えようとされている。私達は十字架の愛で罪の刑罰を赦された。その恩義を忘れず、この父の慈しみの中に生き続けるのだ。そうすれば三代、四代にまで続く神の呪いの罰を、私達から、永遠に追い払う事が出来るのである。ハレルヤ!
5/8 花の日礼拝
5/8 花の日礼拝 5/8の礼拝は花の日(母の日)礼拝です。 ヴァイオリンの演奏があり、夫人の方々にはケーキのプレゼントがございます。 ぜひ、興味のある方はお越しください。 普段は1部、2部と別れて礼拝を行っていますが、当日は10:30からの礼拝のみになります。 お越しの方はお間違えの無いようにお願いします。 また、Youtubeの配信も10:30からになります。
「両刃の剣を握る」(1)
「両刃の剣を握る」(1) † 聖書の両刃の剣。 世の中の常識的な「両刃の剣」と言う意味は、相手を切ろうと剣を振りかざすとき、自分も傷をおう可能性がある。また相手に打撃を与えても、それなりの打撃も受けること。日本刀と違って片刃ではなく、自分に面する裏側にも刃があるので、危険性を持つのである。聖書にも、この両刃の剣が出てくる。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」ヘブル4・12)神の言葉は、私達の救いを保証する約束の言葉である。しかし神の言葉は、今も力強く活きて働いている。しかも両刃の剣よりも「鋭く」私達の霊と魂を刺し貫く。誰が刺し貫かれるのか、現在の私達クリスチャンである。では、私達は神の言葉で傷つき打撃を受けるのであろうか?・・・・決してそうではない。ただ、キリスト信仰を公言しながらも、主イエスに対する「心の信仰」を実際に発揮していない人々の、不誠実さや勤勉さの欠如を、刺し通して明らかにされる。誰も隠しきれないのだから、悔い改めよ。と、言われるのである。人間の肉性には鋭く刺し通す両刃の剣なのである。 † 聖書のアイロニー。 聖書は実に機知に富んだ書である。要するにアイロニーに富んでいる。先頃もヤコブ書3章の御言葉を暗唱した「私たちは、舌で、主であり父である肩をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです」9-10節)自分の実態を言い当てられて、誰も返す言葉もないわけだ。私達は日常生活の中で、両刃の剣を握らせられている。上記の「舌」である。善の世界を生みだすことも出来、悪の地獄を生みだす事にもなる。常にキリストの支配下にある事が、私達の最善である。と、いうことが語られているのである。人間の努力で、舌(唇)を制する事など出来ないからである。善と愛の最高位にして、最も恐るべき審判者である主なる神を畏れる事が、最も知恵があり、分別のある人なのである。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」箴言1・7) 知恵が分別となり、自己を制御する力となるので、舌もまた制御されるのである。