「両刃の剣を握る」(1)

 † 聖書の両刃の剣。
 世の中の常識的な「両刃の剣」と言う意味は、相手を切ろうと剣を振りかざすとき、自分も傷をおう可能性がある。また相手に打撃を与えても、それなりの打撃も受けること。日本刀と違って片刃ではなく、自分に面する裏側にも刃があるので、危険性を持つのである。聖書にも、この両刃の剣が出てくる。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」ヘブル4・12)神の言葉は、私達の救いを保証する約束の言葉である。しかし神の言葉は、今も力強く活きて働いている。しかも両刃の剣よりも「鋭く」私達の霊と魂を刺し貫く。誰が刺し貫かれるのか、現在の私達クリスチャンである。では、私達は神の言葉で傷つき打撃を受けるのであろうか?・・・・決してそうではない。ただ、キリスト信仰を公言しながらも、主イエスに対する「心の信仰」を実際に発揮していない人々の、不誠実さや勤勉さの欠如を、刺し通して明らかにされる。誰も隠しきれないのだから、悔い改めよ。と、言われるのである。人間の肉性には鋭く刺し通す両刃の剣なのである。

 †  聖書のアイロニー。
 聖書は実に機知に富んだ書である。要するにアイロニーに富んでいる。先頃もヤコブ書3章の御言葉を暗唱した「私たちは、舌で、主であり父である肩をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです」9-10節)自分の実態を言い当てられて、誰も返す言葉もないわけだ。私達は日常生活の中で、両刃の剣を握らせられている。上記の「舌」である。善の世界を生みだすことも出来、悪の地獄を生みだす事にもなる。常にキリストの支配下にある事が、私達の最善である。と、いうことが語られているのである。人間の努力で、舌(唇)を制する事など出来ないからである。善と愛の最高位にして、最も恐るべき審判者である主なる神を畏れる事が、最も知恵があり、分別のある人なのである。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」箴言1・7) 知恵が分別となり、自己を制御する力となるので、舌もまた制御されるのである。

「両刃の剣を握る」(1)