「喜びの極みとなる」(3) † 幸せで長生きする。 地上の生活を生きる上で「幸せで長生きする」ことは、人間の求める最上級のことである。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です」エペソ6・2-3)先日のベテル幼児園の卒園式でも取り上げた御言葉である。「あなたの父母を敬え」という誡めに、主なる神が「幸せと長生きする」祝福を最初に約束されたのだ。私達は、誰かの子供であるはずだから、あなたは父母を尊敬しているか?と、問われているのである。あなたの中で「父母を敬っている」ならば、とても健全なのである。神が創造者として存在するものの父であるように、父母とは、あなたを存在させるために、選ばれた神の代理者なのである。善い父母、悪い父母に関係なく、主なる神にあって敬われる存在なのだ。私達が新しく生まれ変わっているならば、神を畏れ神を敬っている。だから父母がどうであれ敬うことが出来る。しかし、主なる神を畏れることを知らない人は、父母を敬う事が出来ないか、不十分なのだ。このような関係が、幸せと絡(カラ)んでおり、長寿も絡んでいる。 † 逆説的な喜び。 「逆」 (さからう。さかさま)の意味だが、聖書には人間の感覚的な捉え方とは全く違っている事が多い。極みという領域は、だいたいにおいて逆説的である。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」 ヨハネ12・25,[参]マタイ10・39)人間の感覚のことを聖書では「肉(の性質)」本能と結びつけている。人間の本能は、自己保全、自己尊厳という自我に基づく判断をする。それだから聖書を素直に受け入れられないのである。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」 マタイ1039)このような御言葉は「頭」では理解できるが「本能」には異質物として理解できないのである。「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」1コリ12・3)聖霊に導かれている人が、喜んで十字架に死ぬことを選び、キリストと苦しみを伴にできる。そして、この逆説的な大いなる祝福と喜びを与えられる。
「喜びの極みとなる」(2)
「喜びの極みとなる」(2) † 至りつくところ。 神によって創られた私であり、主イエスによって新しく生まれた私である。それがクリスチャンを言い表す宣言である。問題は実感している内容(信仰)である。その極みとなる内容は「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」1ヨハネ4・18)である。これは全てのクリスチャンが地上生活で、到達を求められている「喜びの極み」である。旧約聖書には「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません」雅歌8・7)と宣言されている。これは、主なる神が私達の内に創造される神の愛(アガペー)なのである。この偉大な私達への御業に、無関心に生きて良いわけがない。愛は「こうすればこうなる」というノウ・ハウの世界ではない。生きている者が、最上級の恵みとして受け取れる神の力は愛である。主イエスから受ける神の愛が、私の毎日の信仰生活を通して完成することである。想像する絵でも、言葉でもない、極められる実態である。 † 家族の中に守られる。 家族とは、年長者から赤子までが共に繋がって生きている。強い者も、弱い者も同居している。教会に属する私達も、同じようにキリストによる家族である。家族には先祖があるように、キリストの家族にも、キリストの使徒達から、これまで名だたる先祖が神と共に生きている。強い信仰で戦い抜いた人も、殉教を厭わなかった人もいる。そのような強い先祖ばかりではない。限りなく弱い人もいれば、人生半ばで戦火に遭ったり、天災や病い、事故で神の御許に帰った家族もいる。キリストの家族の喜びとは何か? それは、全ての信仰の家族の父として、神がおられるということだ。私が強かろうが、弱かろうが、信仰が篤かろうが、:薄かろうが、父なる神は「子」として平等に愛される。「神にはえこひいきなどはないからです」 ロマ2・11)これこそが信仰の偉大な極みである。このような慰めがあるのだから、生きている間に、もっとキリストの栄光に生きよう。もっと信仰の従順に生きて、喜びと平安を体得して行こう。
キッズ イースターイベント
キッズ イースターイベント KID’ SUNDAY HAPPY EASTER 4/17のKid’s Sundayは「HAPPY EASTER」ということで山登りをしながらエッグハント(卵探し)を行います。 みんなはいくつ見つけることができるかな? 日付 4/17(日) 集合・受付 10:30 集合場所 可児福音教会アーク 帰宅 13:00予定 参加費 200円(交通費・保険料込み) 当日は山登りができる服装・靴、水筒をもって参加してください。 雨天時は教会内で他のゲームを行います。 詳しくはチラシをご覧ください。
「喜びの極みとなる」(1)
喜びの極みとなる(1) † 極みにいたる。 生きていると言う事は「途上」を意味する。極み(物事の行きつくところ。極限。限り。)に達するための道程に私達は置かれている。何事にも極致というものがある。剣術の極致ともなれは、相手の心の動きを見通して勝負に勝つ。感覚が研ぎ澄まされた職人芸による作品には極致に至った逸品が多い。もはや真似が出来ないのである。今日も人間国宝といわれる人々は、極みを会得した人々と見て良いのである。確かに世の中には、そういった特別な人々がおられる。万人が出来る事でも、関われることでもないのである。凡人にはどうしょうもない世界があるということを受け入れる。しかしながら、誰にでも共通して与えられている「幸せ・喜び」を極めることは、人間の特権であると思う。喜びの極みとは何か?喜びの極みと「なる」ものは本当に何なのか?生きている自分に即して考える事は大切な事である。やはり、喜びの極みを会得したい、という思いがある。生ける御言葉と聖霊がお働きである中で、どの様な状況にも損なわれない、極みとなる喜びを得る事はあり得るはずだ。理論ではなく、永遠に持ち込める体験として、極みを会得したい。 † 何ものにも損なわれない。 人間の生活は一瞬にして変えられてしまう。それが、いま見ている戦争である。美しい町並みも、親しんだ景色もミサイルや空爆で壊されてしまっている。生活の場も財産も消失してしまう中で、人間には何が残されるのか?ここでは、生き延びること、即ち生命が最大に優先される。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」 創2・7)人間とは魂を持つ者のことである。ここに重要な手掛かりとなる真理がある。原初に神が形づくり、神が生命の息(霊)を吹きこまれたのである。人間を歴史上に見、国の政治や経済産業に見、環境や人間関係に見るのであれば、世界には大きな格差に生きる個人がいる事になる。また、その格差は人間の不平等をあからさまにする。しかし、地上の不均一を乗り越える道は、人間共通の「原初」にある。人間を創られた創造者の父なる神がおられる。一人一人を神は力と豊かさを持って助け守られるのである。
2022年中高生春キャンプ
2022年中高生春キャンプ 今年は教会で中高生春キャンプを行います。 今回のテーマは「君の中心は何?」 講師は大嶋重徳先生! 鳩ヶ谷福音教会の牧師で若者伝道を中心に行っている牧師先生です。 締切は3/20まです。 参加費とともにお申込みください。 感染対策を徹底し、行っています。
「らしく生きる」(7)
「らしく生きる」(7) † キリスト者らしい人。 今から100年も前に、内村鑑三は「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」という本を英文で書いた。16才から34才までの体験と精神的成長を綴(ツヅ)たものである。クラーク先生(札幌農学校)の残した「イエスを信じる者の誓約」に、新渡戸稲造達と共に署名した。政府の行政や機関、水産課に勤めたが、渡米し、大学を卒業する。その後、神学校でもしばらく学んだ。今や、この本が現代語に直されて誰でも読めるようになった。光文社「古典新訳」で「ぼくはいかにしてキリスト信徒になったか」である。文語調の日本語のものもある。素直に、現代の私達は「らしいキリスト者」を目の当たりにする。内村鑑三が、キリスト者であるために受けた迫害は、彼が本物であるがためであった。気骨のある彼の信仰は、日露戦争に反対する「戦争廃止論」を発表した。私個人としては、二十代で「ロマ書の研究」上下巻、「求安録」「人生の最大遺物」等を読み、大きな前進を与えられたことだ。内村鑑三の著作全集もあるが、内村鑑三は日本の精神史における、第一人者である事も、知っておくことである。日本の先人クリスチャンから、学ぶ事は誠に「大々」である。 † 悲しみに向かって。 人は生まれながらにして、身に引き受けているものがある。ある人は障害であり、不治の病であり、変えられない環境もそうである。早くして子供や夫を、妻を亡くす事も、心に悲しみを背負って生きることにもなる。今、激しい戦火に見舞われているウクライナの人々は、測り知れない痛みと悲しみを持って、国を離れている。「らしく」とはどう言うことか? 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ロマ12・15)この繋がりで言うならば、当然の怒りをも共有できると思う。理不尽な暴虐を私達は茶の間で見せつけられる。ミサイルや空爆で都市が瓦礫と化してゆく。私達は福音にふさわしく「殺してはならない」 戦争反対と、告白し抗議する。「キリスト者」らしく語り、祈り、行動する。苦しみ、悲しむ人々と一緒になって、神を呼び求めよう。モーセは背後に迫ったエジプトの大軍が、神の御使いによって足止めされている間に、紅海を渡った。後を追ったエジプトの軍勢は海に飲まれた。神は働かれるのだ。