「喜びの極みとなる」(2)

† 至りつくところ。
 神によって創られた私であり、主イエスによって新しく生まれた私である。それがクリスチャンを言い表す宣言である。問題は実感している内容(信仰)である。その極みとなる内容は「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」1ヨハネ4・18)である。これは全てのクリスチャンが地上生活で、到達を求められている「喜びの極み」である。旧約聖書には「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません」雅歌8・7)と宣言されている。これは、主なる神が私達の内に創造される神の愛(アガペー)なのである。この偉大な私達への御業に、無関心に生きて良いわけがない。愛は「こうすればこうなる」というノウ・ハウの世界ではない。生きている者が、最上級の恵みとして受け取れる神の力は愛である。主イエスから受ける神の愛が、私の毎日の信仰生活を通して完成することである。想像する絵でも、言葉でもない、極められる実態である。

†  家族の中に守られる。
 家族とは、年長者から赤子までが共に繋がって生きている。強い者も、弱い者も同居している。教会に属する私達も、同じようにキリストによる家族である。家族には先祖があるように、キリストの家族にも、キリストの使徒達から、これまで名だたる先祖が神と共に生きている。強い信仰で戦い抜いた人も、殉教を厭わなかった人もいる。そのような強い先祖ばかりではない。限りなく弱い人もいれば、人生半ばで戦火に遭ったり、天災や病い、事故で神の御許に帰った家族もいる。キリストの家族の喜びとは何か? それは、全ての信仰の家族の父として、神がおられるということだ。私が強かろうが、弱かろうが、信仰が篤かろうが、:薄かろうが、父なる神は「子」として平等に愛される。「神にはえこひいきなどはないからです」 ロマ2・11)これこそが信仰の偉大な極みである。このような慰めがあるのだから、生きている間に、もっとキリストの栄光に生きよう。もっと信仰の従順に生きて、喜びと平安を体得して行こう。

「喜びの極みとなる」(2)