「道理に立ち返る」(3)

「道理に立ち返る」(3)  † 必要が不必要に。 20年前はラジカセ時代であった。それで様々な大型のラジカセが登場した。CDを登載したラジカセが主流になった。子供達が欲しがるので当時の評判のラジカセを買った。手元から離れて、何年かして帰って来た。故障したのだ。相手はデジタル機械である、ボタンを、むやみやたらに押し続ければ故障の原因となる。デジタル機器の道理もあるのだ。大事なリモコンも紛失されては、もう、不必要と言うほかない。大枚を叩(ハタ)いた覚えのある身には、簡単には捨てられないので放置していた。つい最近電源を入れてみた。カセットデッキが動かない。CDテッキも動かない。ラジオは3バンドとも生きている。これをどうしょう?不必要を必要に代えられるのか?とにかく電源を入れっぱなしにしてみる。これを繰り返す内に、カセットテープのモーターが動き出した。CDデスクは一週間後に表示だけ出たが「NO desk」それを放置していたら、突然CDが音楽を奏でた。何かの偶然で作動したにすぎない。あきらめずに触れて係わって行こうと決めた。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」イザヤ42・3)折らないこと、消さないことが、道理にはある。  † テストされる。 「巧言令色すくなし仁」人前に立ち、表情豊かに、巧みに言葉を操る。これは人のする常套手段である。牧師もそういう立場にある。非のなき神の言葉を、語るのだからなおさらである。しかし、生ける神は、ご自分の言葉を語る者を「テスト」される。御言葉の重みにふさわしく語って欲しいからだ。ここに道理がある。即ち、人としての「徳」のない者に、神の言葉は、語るにふさわしくないからだ。人の評判や人気のために動機があっては「テスト」にまず受からない。「自分の義と賢さにすぎて」伝7・16)生きることでもない。次のことが出来る事である「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」 1コリ6・7)迫害者をも愛して祝福する。そこを現実に生きる事で、合格するかも知れない。福音の道理に立ち返る時にのみ「仁」あり、徳ありとされる。

「道理に立ち返る」(2)

「道理に立ち返る」(2) † 人の好まないこと。 人の好む事は何だろう?第一に「道理に適うこと」である。しかし、これには注意が必要である。私達の性情には、四角四面である事を好まない傾向がある。要するに真っ正直では、面白くない。歪んでいたり、イレギュラーする事に興味を持つのである。著名な小説家が言うのには、破天荒な人物こそ小説の題材である。と、真っ正直な道理に過ぎる人は、面白く書けないと、言うわけで、まさに好まれていないのである。私達は自分に即して、なにごとも都合良く振り分けて生きているのだ。社会や政治に期待することは、道理に適った正義を主張する。しかし、身近な生活では四角張った道理を求められるよりは、あれも、これもあっても良い緩やかな、アドリブのある生活が気楽なのである。しかし、根本には道理を置いていて、自分と家族の規範としているのである。私達の主イエスは、真理という道理に生きられた。しかも全き自由であられた。これこそが私達の立ち返る「道理」なのだ。全く片苦しくなく、笑いと喜びに満ちておられたのである。イエスは言われた「私の言葉にとどまるなら、あなたがたは本当に私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32-32)まず、この御言葉にまず立ち返りたい。  † 面白いことから。 時代が進むということは、どういうことを意味するのか。思うに低年齢化することである。私が主イエスと出会った60年前の常識は、前世代の蹈襲(トウシュウ)で、幾らか封建的であった。徒弟制度が生きており、男というものの尺度があった。また、男の遊びというものも公認されており、27才まで位に卒業し、所帯を持つために身を慎む。それが地域の目であり、監視のようでもあった。その中に若者の私もいた。しかし、私はキリスト者として、世的な男の遊びには赴かなかった。それで、その地域で珍しい男として知られたわけである。社会が容認する男の遊び、その面白さに浴した青年達は、心の内容が変わってしまった。どの様に福音を伝えても「にやにや笑った」男には別の世界がある、と言わんばかりであった。人間の道理(真理)が、ばかばかしく思えてしまう。この事が低年齢化している。男が一旦、面白い事にはまると、救いから遠くへ弾き飛ばされてしまうのだ。私はそういう多くの男達を見たのである。

「道理に立ち返る」(1)

「道理に立ち返る」(1)  † 人間的な道理。 信仰を持つ私達は、立ち返る必要があるのか?即ち、なにに、どこに、立ち帰る返るべきなのか?ということなのだが、ある人は、もはやそんな必要はない「なぜなら神は私達を救われた」からと言うかも知れない。しかし、私達は救われた後の生活の方が、誘惑と戦いに満ちており、その戦いに勝利するように聖書は書いている。確かに、主イエスの救いは完全である。イエスと共に十字架につけられた、極悪な強盗が「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」というと、イエスは言われた「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」ルカ23・42-43)要するに救われて、すぐに天に召されれば、この世の誘惑も、戦いもない完全な救いの中に住まう事が出来る。しかし、この世に生きる私達は、試練や誘惑を乗り越えるための信仰が、与えられている。それで、いつも神に立ち返る事が信仰なのだ。これを私の「人間的道理」とすれば、迷うことなく、正しい道筋を生活の中に思い起こし、勝ち進めるのである。  † 最大のチャンス。 今年は、世界で初めて無観客のオリンピック、パラリンピックが日本で行われた。内容が競技である限り、順位がつきものである。まず、参加する事が出来た一人一人が名誉ある選手である。メダルを獲得した選手は、勝者として、その名が世界に知らされた。思わされるのは、四年ごとの競技に、それほどのチャンスがないということである。さて、私達は神に召され選ばれた者であるが、主イエスに期待されている事は「勝利を得る者」となる事である。四年の間にと言う様な期限はない。不断に神を信じ、御言葉に聞いて従っているなら、勝利者の道を歩いているのである。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」 默3・21)私達には、この世で生きる最大のチャンスが、与えられている。主が招かれる場所が「主の御座」とは、何という名誉であろう。明らかに、主が自ら歩まれた道筋を言われている。召され、選ばれたと思うものは、主が伴われる勝利を得る道を、歩もうではないか。

「不動の錨により頼む」(7)

 † 点ではなく線。 点の繋がりが線であるならば、違いを区別するのはヤバイ事かも知れない。しかし、考え方として「点」としてか「線」としてか、では大きな違いが生まれてくる。人の一生を点として見る事も出来る。聖書も「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい」詩103・15)と、短さを、はかなさを「点」のように訴えていると思う。唯物論者には、人には永遠がないので、人生は火花の様なものと見る。物質の一部である人間も、その命も、点としか言いようがないと思える。しかし、私達は人生を、その生命を「線」と見る。人間の地上での時間は確かに短いが、それが終着だとは受け取らない。「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。・・」申命33・27)私達の人生や生命が、いかにも点の如く見られ、思われようと、永遠という住み家である神と、その腕が下にあって支え続けているのである。私達の不動の錨は、神が住み屋であること。永遠の線の如く生かされる事だ。今の人生の様々な節目を、大事な「点」として生きよう。あの事、この事の一つ一つを、大事にして全うしょう。  † 安息日がユダヤ人を守った。 AD70年より、ユダヤ人は祖国から諸外国に追放され、1800年間も異民族の中に住んだ。しかしユダヤ人である事を失なわなかった。この驚くべき事実は、5000年に及ぶ聖書の掟を、守り通してきた結果である。神を礼拝する安息日が、ユダヤ人を守ったと言うのである。トーラー(旧約聖書)とタルムードの教えを聞き続ける、このような習慣を「かたくなに」守り続けたのである。私達はクリスチャンであることを、頭で考える事は優しい。しかし、主日礼拝を守り、聖書の掟を守り、真理を学び続ける事は優しくはない。ユダヤ人のように「かたくな」に、掟を守り、礼拝を守る習慣を堅固にしなければ、何世代にも続くアイディンティテイ(同一性)を持つ事は出来ないだろう。「曖昧な日本人の私」(大江健三郎著)にある曖昧さを美徳としては、達し得ないと思うのである。最後に言える事は、不動の錨を創り出す賢者(私)になるには、実証したユダヤ人から学ぶべきだと思う。その、かたくなな習慣は、信仰生活を堅固にし、これからの教会の発展と宣教の不動の土台であるからだ。

「不動の錨により頼む」(6)

「不動の錨により頼む」(6)  †不動の証拠。 この世の中では、証拠がないと真実と認められない。刑事ドラマを見ていると、証拠がないのでアリバイを崩せない、と言う筋書きが多い。そして、科学捜査班が登場し、厳しい鑑定を通して証拠を突き止めて不動の証拠となるわけである。私達クリスチャンの告白している 「 地獄からの救い、永遠の命、死からの甦りの証拠はなにか? 」 と 問われるだろう。もちろん、主イエスの十字架と復活が揺るぎない証拠だと私達は言う。歴史的な神の出来事として揺るぎない証拠である。信仰とはその事実を信頼していることである。また、主イエスを生きている神 メシヤ と信じている私達には、神からの生命と力が与えられている。この事も揺るぎない証拠である。さらに神の与える揺るぎない証拠は、聖書の御言葉 神の言葉 と、聖霊 (神の霊) である。主イエスがメシヤとして、死から甦られた証拠は、それを語られていた神の言葉を その御言葉どおり、主イエスを死から甦らせた神の霊 (聖霊) の力である。現代の私達も 使徒達と全く同じ証拠を提出するのである。「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました」 2 コリ 5 ・ 5 )私達の不動の錨にハレルヤ!  †理論と実際。 私達の生活を司る時間は、いつから始まったのか? 物理学者は 言 う「無の状態から約 138 億年前の時点において、突然宇宙が出現した時からである」  それ以前には時間がないと言う事になる。私達は、神の創造としての宇宙が瞬間に造られたことを理解する。神は地球を選び、整え、ご自分に似せて、完全なる人間を創造された。だが、人間は罪を犯し死ぬべき存在になった。神は実際に人となって人間の罪を背負い 、 血を流し死なれ、人間を完全にするために、墓から甦り復活された。それは人間と、人間に狂わされた地球を完全に新しく創り直されるためである。新し くなる地球と宇宙の関連は、私には今の所わからない。ただ、神は「初めであり終わりである」永遠なるお方なので、完全な贖いである 神の審判 の後には、新しい天と地の永遠のみが存在する。神は、ご自身の息 (魂) を吹きこんだ私達人間を地球に造り、限りなく慈しみ、愛して永遠の存在にされるのだ。