「道理に立ち返る」(2)

† 人の好まないこと。
 人の好む事は何だろう?第一に「道理に適うこと」である。しかし、これには注意が必要である。私達の性情には、四角四面である事を好まない傾向がある。要するに真っ正直では、面白くない。歪んでいたり、イレギュラーする事に興味を持つのである。著名な小説家が言うのには、破天荒な人物こそ小説の題材である。と、真っ正直な道理に過ぎる人は、面白く書けないと、言うわけで、まさに好まれていないのである。私達は自分に即して、なにごとも都合良く振り分けて生きているのだ。社会や政治に期待することは、道理に適った正義を主張する。しかし、身近な生活では四角張った道理を求められるよりは、あれも、これもあっても良い緩やかな、アドリブのある生活が気楽なのである。しかし、根本には道理を置いていて、自分と家族の規範としているのである。私達の主イエスは、真理という道理に生きられた。しかも全き自由であられた。これこそが私達の立ち返る「道理」なのだ。全く片苦しくなく、笑いと喜びに満ちておられたのである。イエスは言われた「私の言葉にとどまるなら、あなたがたは本当に私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32-32)まず、この御言葉にまず立ち返りたい。

 † 面白いことから。
 時代が進むということは、どういうことを意味するのか。思うに低年齢化することである。私が主イエスと出会った60年前の常識は、前世代の蹈襲(トウシュウ)で、幾らか封建的であった。徒弟制度が生きており、男というものの尺度があった。また、男の遊びというものも公認されており、27才まで位に卒業し、所帯を持つために身を慎む。それが地域の目であり、監視のようでもあった。その中に若者の私もいた。しかし、私はキリスト者として、世的な男の遊びには赴かなかった。それで、その地域で珍しい男として知られたわけである。社会が容認する男の遊び、その面白さに浴した青年達は、心の内容が変わってしまった。どの様に福音を伝えても「にやにや笑った」男には別の世界がある、と言わんばかりであった。人間の道理(真理)が、ばかばかしく思えてしまう。この事が低年齢化している。男が一旦、面白い事にはまると、救いから遠くへ弾き飛ばされてしまうのだ。私はそういう多くの男達を見たのである。

「道理に立ち返る」(2)