† 割に合わない仕事。
日本のプロテスタント教会の宣教は、160年以上の歴史を持つが、まだ人口の一%にも達しない。実に、割の合わない働きだと思える。なぜなら、膨大な人材、甚大な労苦、膨大な資金が注ぎ込まれてきたからである。しかし、だからこそ、日本宣教は重要なのである。一人の救いのために、死を厭われなかった、主イエス様の犠牲は、地上の何ものを持ってしても償えないものである。主なる神は日本のために、その独り子を犠牲にされたのである。日本宣教は、それほどに価値のある働きを意味しているのだ。主なる神が主導されるのは、信仰が命となり、確信となった私達を通してである。神への信仰が「生きている限り」宣教は前進して行けるのである。可児福音教会の50年は、その事の証左である。絶えず必要なのは、「神を畏れ」「神に従う」真実な信仰である。日本人を救うのは、地を這うような泥臭い宣教が、人々を救いの道に導くのである。未信者の世界と隔絶せず、品位を持って、人々の中に入って行く事である。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」1ペテロ2・12)
† 人の言葉や評判は別物。
自分の存在を「どこに位置づけるか」は最も重要な意味を持つことになる。言うまでもなく、私達クリスチャンは、主イエス・キリストの中に位置づけられている。しかし、私達は使徒パウロやペテロのように完璧ではない。現代の情報世界では、自らを、より知られことを求める傾向がある。人々の関心を引き寄せたいのである。ペテロは言う、兄弟姉妹が真理に堅く立つために、「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています」Ⅱペテロ1・13)パウロは、ローマへ囚人として鎖に繋がれると、多くの弟子が離れて行った。神に従うパウロの生き方には、評判や人気などは、福音の本質とは関係のないもの。無縁のものなのだ。しかし、この世にある限り、人間の関心は、本質とは異なる、見栄えや巧みさを評価するのだ。
「保ち続けること」(2)


