† 痛い言葉が宝になる。
 小学校五年生と六年生の担当教師だった、細江廣久先生はかけがえのない恩師である。五年生の通信簿に、私に対する所見が書かれてある。「努力が足らず、出来るのにできていない」と、それなのに、私は気にもしないで、復習も予習もしない生徒で、遊び続けていた。そういう自分に気がつくのは、15歳で世に出てからである。誤字脱字を平気で書くような自分を恥じるようになり、無学を補うため独学の世界を、自分の学舎とした。総理大臣になった、田中角栄氏も私と同じような境遇なのだと励まされた。私は「努力する」がない人間である事を忘れることはない。主も言われる「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう」箴1・23)愛を持って叱責されるのである。ある人が、今の私の現実を見抜いて、叱責や苦言を宣べてくれるなら、怒ってはいけない。また、向き直ってはいけない。自分を見直すべきなのである。その言葉は、年を重ねても、心に留め、保ち続けるならば、いずれ大きな財産を得ることと同等の価値を生む。神のことばは、私への愛の言葉であり、同時に私が怠惰にならないための、誡めの言葉である。  

 † 保つ事は持ち続ける事。
 「保つ」とは、無形のもの、有形のものがある。叱責を聞くこと、教えを聞くこと、指導を受け技術を身につけることなどは、見えない無形の財産である。有形のものを「保つ」とは、持ち続ける事でもある。ユダヤ人学者が本に書いていた。ユダヤ人は、書物は棄てない伝統があると。著明な政治学者が語るには、書店にある何万冊の本は、それほど(全く)価値がない。大事なのはギリシャの哲人(古典)から現代の500年の歴史を鑑み、人間と人間の世界のあり方に、真摯に磨き上げた論文(学説)が最も現代に求められる。私達には聖書を筆頭にして、価値ある重要な思想が古典書となっている。神は絶大な霊的財産を地上に生みだされたのである。過去の財産が人間の知恵となり、人間の深みとなり、未来の指標ともなる。実に、自らの足らなさを痛感するが。今の私達の世界と、その中味の情報は皮相な部分に過ぎない。神と世界の歴史さかのぼって、真の今を知って語る者でありたい。

「保ち続けること」(1)

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