† 妥協を許さない。
 私は多くの場合、さまざまにおいて、受け容れるタイプである。妥協しているのでは?と言われてれば否定できない。例えば、教師が生徒のテストが100点でなければ受け容れない、としたら、本当に向上を願う教育は与えられない事になる。100点でなければ妥協しない、と言う様な環境(塾・予備校)ならば、あり得るだろうが、論外の世界である。ここで言う「妥協しない」と言う意味は、神の恵みに対してである。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」1ペテロ2・3)原語には「もし」がある。英訳などでは「あなたがたがもし主が恵み深い方であることを味わい知ったならば・・・」となる。私に即して言えば、恵みに対して本当に味わい知っているのか?という「問い」がされているのである。「もし」とあるのは、全てのクリスチャンが、主イエスの恵み深さ、憐れみ深さを真実に味わい知っていない可能性の事実を言っているのである。私達が、主の特別な憐れみを知らないままに、生きているとするならば、私は主イエスを知らないままに「妥協した信仰」が続いているということである。私達はどの時代にあっても「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、・・・確信しているからです」2テモテ1・12)と、なるまでは主を求め続けることを止めて、妥協してはならないのである。

 † 乳と蜜が流れている地。
 エジプトでの奴隷生活から、神がモーセを用いて、旅立たせた目的地は、アブラハムに約束された、乳と蜜の流れるカナンの地である。私達クリスチャン生活の「雛型(ヒナガタ)」でもある。エジプトでの生活(罪の奴隷を現す)約束の地に定住する「乳と蜜の流れる(神の祝福を受ける)」そのためには、荒野での試練を乗り切る神への信頼を求められた。カナンに入るためには、一切の疑いと不信仰を捨て、ヨルダン川を渡る(洗礼)の必要があった。その先に「乳と蜜の流れる約束の所有地」があった。「乳と蜜の流れる地」を実際に満喫するためには、定住してるカナン人を、追い払う行動と戦いを必要としていた。私達も同様である。信仰において、カナン人(異邦文化と価値観)と妥協しない。主イエスに堅く結びついて「乳と蜜は」絶えることなく流れる。

「これしかない定め」(3)

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