† 幸いな運命へ。
誰もが感じながら生きていることがある。この先どうなるのか?これからも、今まで通りなのだろうか?何かが起こるのが世の中である。若い人の上にも、家族に起きた出来事で、環境が激変してしまいこの後が変わってしまうのを見る。運命とは、何かが起り、全く予期しない方向に強制される。可児にきて50年、可児福音教会は、恵みにより形成された。しかし、可児の地に来たのは、まさに予期せぬ出来事を通して、行く道を変えられたからである。これが運命なのである。どのようなことによってであれ、運命は大転換を迫るのである。それがなぜ「幸いな運命」と言えるのか?それは明快である「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)たとえ、何の備えもない「ゼロ」の環境の中に送り込まれても「神の中に生きている」ことは勝利である。それが幸いの全てなのだ。それしかない現実の運命を、神が主導され可児福音教会を握られ、築き上げられたのである。開拓伝道が豊かな助けで準備される時代かも知れない。人為的な豊かさで伝道は教会形成できるか?ただ一つ、宣教者は「運命に定められ」神に生きるしかない信仰があることだ。その第一があって、神は主導される。「・・・力は、神のものであることを」詩62・11
† 自らを決定づける。
プロ野球を見ていて、どうして負け続けるのか?と嘆く。彼らこそ最も鍛錬をして、技術を磨き続ける。それほどに勝つと言うことは容易ではない。幾ら「俺は必ず打つ」と宣言しても、凡打を繰り返し、三振に討ち取られるのである。血のにじむような努力しか「成績に表れない」しかも、それでも成果に現れないのがプロの世界である。一本のヒットが、どれ程の価値か、わかるのである。それにひきかえ、私達は幸いである。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」ロマ10・10)自らの口の告白(宣言)で、神に義と認められ、罪と死から救われる。どれ程の努力や鍛錬が必要なのか?口の告白(宣言)だけである。おなじくロマ10・8「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」神の約束・権威と力の御言葉を、私が口で宣言し確信すると、それが私の現実となるのだ。ハレルヤ!


