† 父との親密さ。 私達の教会は、ビンヤードの名が付く可児福音教会である。世界にワーシップソングを、初めて広げたのがビンヤード教会である。A・Eマクグラス著「プロテスタント思想文化史」(16世紀から21世紀で)によれば
「神の子供の信仰」(1)
† 明確な区切り。 私達は初代教会時代の人間ではない。このことが幸いか、不幸かは個人の価値観が決めることだ。しかし、御子イエスを、救い主と信じる事においては同等である。初代のクリスチャンは、躓きを乗り越える勝利が伴なっ
「開かれた心と霊」(7)
「開かれた心と霊」(7) † 信仰の心の在り所。 信仰は、長い歴史において培かわれてきた、信仰は教理(教え)にあると言う事も言える。これは、おもに人間の思惟(シイ)→人間の知覚や感覚とは異なる、知的精神作用による人間の
「開かれた心と霊」(6)
「開かれた心と霊」(6) † 一心に見つめて離れない。 誰もが、自分を鏡に映すと思う。入念に鏡の自分を見続けるのではないか?「・・・完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはなら
「開かれた心と霊」(5)
「開かれた心と霊」(5) † 流されない心とは? 流されるとは、文字通り「留まれない・変わってしまう」と言うことである。心が流されれば、神への信仰も変わってしまうのである。心の自然の形は「依存」の心である。特徴は、他人
「開かれた心と霊」(4)
「開かれた心と霊」(4) † 神の中に存在する。 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)日常の生活では、心が閉ざされたような感覚の時がある。救われている現実の救いがあり、信仰は進行して
「開かれた心と霊」(3)
「開かれた心と霊」(3) † 潔い良心を持つ。 私達は、神の御前に生きている。ダビデが「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は
「開かれた心と霊」(2)
「開かれた心と霊」(2) † 神の心を知る。 私達はイエス・キリストを愛している。愛を生じさせるのは、思いと思いである。それが、心と心を結びつけるのである。私の心が御父に結びつくのは「御父の心の思い」を知ったからである。
「開かれた心と霊」(1)
「開かれた心と霊」(1) † 自らの手で開く。 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」黙3・
「福音を熟慮する」(7)
「福音を熟慮する」(7) † 福音の持てる幅(はば) 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして