† 福音の持てる幅(はば) 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさま
「福音を熟慮する」(6)
「福音を熟慮する」(6) † 浅慮短見(せんりょたんけん) 自分に当てはまることだが、考えが浅く身通しが短い。それが「浅慮短見」である。人は誰でも、ある時期までは同じような経験をするのではないだろうか?多くの人達との出会
「福音を熟慮する」(5)
「福音を熟慮する」(5) † 沈思黙考(チンシモッコウ)。 静かに深く考え込むことが、沈思黙考である。私達の欠点と言えば、まさに「静かに考え込む」時間が持てていないことである。それほどに雑多なことに費やし、スマホを通して
「福音を熟慮する」(4)
「福音を熟慮する」(4) † 未来ではなく今。 今日よりも、明日に望みを抱いて生きる。それでしか、今を忍べない。そのような人生の修業時代があったことを覚える。そのゆえに、主イエスに出会えたのだから、悪いことではなかった。
「福音を熟慮する」(3)
「福音を熟慮する」(3) † 家庭と福音。 地域に教会があることは幸いである。そこに教会が在れば、何人かの方々が教会に赴くことができるだろう。そういう意味では、キリスト教会は、どんな小さな町にもあって欲しいと思う。しかし
「福音を熟慮する」(2)
「福音を熟慮する」(2) † 熟慮断行(じゅくりょだんこう)。 十分に考えた上で、思い切って実行すること。これが「熟慮断行」である。やはり、教会の鍵を握るのは、個人の真摯な「熟慮断行」が有るか、無いかにかかっている。こと
「福音を熟慮する」(1)
「福音を熟慮する」(1) † 深謀遠慮(しんぽうえんりょ)。 「深く考え、遠い将来までを身通した計画や配慮」のことを、深謀遠慮と言う。深謀とは、深く考えることを意味している。信仰の父、アブラハムは「主が言われたようにいで
「恵みの至る所」(7)
「恵みの至る所」(7) † 私にあるもの。 主イエスが地上に来られたことにより、律法に変わり、神の慈しみと憐れみが、注がれるようになった。主イエスの時代から、今日も同じく変わることはない。これが驚くべき恵みの本質だと思う
「恵みの至る所」(6)
「恵みの至る所」(6) † 活力のある心に。 同じ時期に、二つの同じ問題に直面した。一つは突然デスクトップPCの電源が入らなくなった。40年のPCとの付き合いで初めての事象で、何が原因か解らなかった。所が思いがけず電源が
「恵みの至る所」(5)
「恵みの至る所」(5) † 枯れることにもなる。 恵みの所在は神にある。私達の生まれつきの所与ではなく、主なる神から与えられているものである。主イエスを信じて「神の恵み」が与えられたのである。大切な事は、与えられた恵みは