† 枯れることにもなる。 恵みの所在は神にある。私達の生まれつきの所与ではなく、主なる神から与えられているものである。主イエスを信じて「神の恵み」が与えられたのである。大切な事は、与えられた恵みは、私の中に守り続けるもの
「恵みの至る所」(4)
「恵みの至る所」(4) † 恵みの体感力。 「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです」1コリ2・12)私達にとって、
「恵みの至る所」(3)
「恵みの至る所」(3) † 一人一人に100バーセント。 ある人は限りない努力をして、必死に神を追い求める。所が、ある人は異なるスタイルを持つ。主を知るための切実さに、それほどではない信仰生活を持ち続けるのである。主イエ
「恵みの至る所」(2)
「恵みの至る所」(2) † 今は恵みの時。 「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え:救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」2コリント6・2)主なる神が預言者イザヤに語られた言葉
「恵みの至る所」(1)
「恵みの至る所」(1) † 神の御心の恵み。 人間に対する神様の御思いは、聖書を通してお示しになっている。人間は「過去、現在、未来」を有する霊的な被造物である。それだからこそ、神様の御心による福音の恵みは、過去の赦しのみ
「受容という技量」(7)
† 進歩するための技量。 自らの進歩は自分にしかわからない。明らかに努力による進歩であり、主の恵み深さによる進歩である。なにが受容されているのか?それは、自らの足りなさである。自らの不十分さを、正直に受容出来ることである
「受容という技量」(6)
† 信仰は自らを受容する。 日本には古来より、自己を追求する思惟が存在する。無の境地とは超越的な到達点で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、織田信長に火攻めにされた快川紹喜(カイセンジョウキ)は、座禅のままに、心頭を滅却
「受容という技量」(5)
† 仕切りの無い続き。 人間は自分の体験や理解した事柄から、整理する概念を持つ。歴史に区切りがある様に、たとえ繰り返すにしても、経過したという仕切りを置くことは問題とは思われない。神が受肉され、世に来られたことは、確かに
「受容という技量」(4)
「受容という技量」(4) † 誠実という技量。 今の時代を巧みに生きる人が、賢い人「世渡り上手」な人である。主も言われる「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のよ
「受容という技量」(3)
「受容という技量」(3) 19† したい放題に対して。 主の語られた言葉「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」ルカ21・9)続く10節に