「開かれた心と霊」(7) † 信仰の心の在り所。 信仰は、長い歴史において培かわれてきた、信仰は教理(教え)にあると言う事も言える。これは、おもに人間の思惟(シイ)→人間の知覚や感覚とは異なる、知的精神作用による人間の
「開かれた心と霊」(6)
「開かれた心と霊」(6) † 一心に見つめて離れない。 誰もが、自分を鏡に映すと思う。入念に鏡の自分を見続けるのではないか?「・・・完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはなら
「開かれた心と霊」(5)
「開かれた心と霊」(5) † 流されない心とは? 流されるとは、文字通り「留まれない・変わってしまう」と言うことである。心が流されれば、神への信仰も変わってしまうのである。心の自然の形は「依存」の心である。特徴は、他人
「開かれた心と霊」(4)
「開かれた心と霊」(4) † 神の中に存在する。 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)日常の生活では、心が閉ざされたような感覚の時がある。救われている現実の救いがあり、信仰は進行して
「開かれた心と霊」(3)
「開かれた心と霊」(3) † 潔い良心を持つ。 私達は、神の御前に生きている。ダビデが「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は
「開かれた心と霊」(2)
「開かれた心と霊」(2) † 神の心を知る。 私達はイエス・キリストを愛している。愛を生じさせるのは、思いと思いである。それが、心と心を結びつけるのである。私の心が御父に結びつくのは「御父の心の思い」を知ったからである。
「開かれた心と霊」(1)
「開かれた心と霊」(1) † 自らの手で開く。 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」黙3・
「福音を熟慮する」(7)
「福音を熟慮する」(7) † 福音の持てる幅(はば) 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして
「福音を熟慮する」(6)
「福音を熟慮する」(6) † 浅慮短見(せんりょたんけん) 自分に当てはまることだが、考えが浅く身通しが短い。それが「浅慮短見」である。人は誰でも、ある時期までは同じような経験をするのではないだろうか?多くの人達との出会
「福音を熟慮する」(5)
「福音を熟慮する」(5) † 沈思黙考(チンシモッコウ)。 静かに深く考え込むことが、沈思黙考である。私達の欠点と言えば、まさに「静かに考え込む」時間が持てていないことである。それほどに雑多なことに費やし、スマホを通して