「道理に立ち返る」(5)

「道理に立ち返る」(5)  † 盲目と好み。 動物と人間の違いについては色々な事が言われる。その中で、とりわけ、わかりやすいのは、どんなに原始的未開にある人間でも必ず宗教があり、信仰がある。と言うものである。私達は既に神を信じている者であるから、神による人間の創造を当然としている。しかし、それが当たり前ではない。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」2コリ・3-4)このように、道理(当然性)は、二つの要素に影響されている。一つは聖書の神の啓示(キリストとの出合い)であり、もう一つは「この世の神」の影響力(覆い)である。人々の盲目は「福音の光」を知らないことだ。当然、好みの方向が違っている。学問にしても、読書にしても、神なき世界の高みでしかない。唯一、主イエスを宣べ伝える事でしか打開はない。緊急にして最重要事項である。  † 振幅と妥当性。 学問というものは、なんであっても理論が成っておれば認められるものである。「黒は白である」という論拠が通れば学として認められる。奇抜な発想が論じられていてもである。キリスト教の学問(神学)は、二千年の歴史の中で、数多(アマタ)の学説が興った。人間の歴史の中で生まれる哲学、思想、革命、戦争による人間の影響である。その時代の波は当然教会にも押し寄せる。そのための新しい神学が生まれる。そこに人間の考え方による論拠が這入りこんでくるのである。今、この時にも、およそ聖書の真実と、かけ離れた使徒像、キリスト像、聖書観の学問が発表されているのである。これらの問題は、教会の羊飼い(牧師)の研鎖(ケンサン)によって、健全に福音と教会が守られてゆくのである。新しく常識となって書き換えられる学説も当然生まれている。同時に不偏的と認められた学説は光りを放ち続ける。学問は幅広い振幅を持つが、それを振り分けるのも、揺るぎない真実の軸を持つ学問の力なのである。道理とは、妥当性でもある。真実な神の意図(ご計画)が、霊感された聖書によって、人間と世界に道理(妥当性)を与え、永遠をもたらすのである

「道理に立ち返る」(4)

「道理に立ち返る」(4)  † 私はちり灰に過ぎません。 「アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」創世18・27)滅亡するソドムからロトの家族が救われるように、神と対峙(タイジ)したアブラハムの執り成しである。主はアブラハムを重んじ彼に知らせないでは、事を起こされなかった。アブラハムの全力が「私はチリや灰に過ぎません・・・・」という神を畏れるへりくだりとなった。先日、軽四トラック二杯分の枯れ草を、許可された田で燃やした。残ったのがチリ灰だ。なんと少量の灰となることか。家屋にしろ、焼けてしまうと灰のみである。造られたものはアブラハムの言うように「チリと灰」に過ぎないのだ。「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」伝道3・20)私達が人間としての道理を考える時、このアブラハムの「私はチリと灰」であるという理解で生きる事が、最も優れている。それは同時に、主にあっては「祝福の基」であり、「神に選ばれた特選の民」で、神の宝とされた、現実を生きることが出来るのだ。アブラハムのように「私はチリと灰に過ぎない」と自認し告白できる人に、鮮明である。  † 「ノーベイン・ノーゲイン」 「犠牲なくして、成功なし(ノーベイン・ノーゲイン)」と言うのが、旧約聖書の教えている重要テーマである。大切なものを失わなければなにも得られない。と言う意味である。この道理には、多くのクリスチャンでさえ、抵抗を感じるのである。今様は、犠牲なくして儲けること、失う事なくして幸福になる事が、思考の中心になるからだ。イスラエル民族は、エジプトから脱出するには、着の身着のまま、持てるものだけを持って、全てを置いて(犠牲にして)自由と解放を手にした。新約聖書を見れば、我らの主イエスは、神である栄光を犠牲にして、人となり命をも犠牲にされた。まさに、救い主イエスは「犠牲なくして成功なし」の原型である。人間としての成功者は、主イエスに倣う人である。犠牲を惜しまない人が、真の成功を手にするのである。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」ルカ6・38)教会に真の成功者を見るのは当然である。主なる神に、自らを聖なる犠牲として与える事で、成功への道が開いている。    

「道理に立ち返る」(3)

「道理に立ち返る」(3)  † 必要が不必要に。 20年前はラジカセ時代であった。それで様々な大型のラジカセが登場した。CDを登載したラジカセが主流になった。子供達が欲しがるので当時の評判のラジカセを買った。手元から離れて、何年かして帰って来た。故障したのだ。相手はデジタル機械である、ボタンを、むやみやたらに押し続ければ故障の原因となる。デジタル機器の道理もあるのだ。大事なリモコンも紛失されては、もう、不必要と言うほかない。大枚を叩(ハタ)いた覚えのある身には、簡単には捨てられないので放置していた。つい最近電源を入れてみた。カセットデッキが動かない。CDテッキも動かない。ラジオは3バンドとも生きている。これをどうしょう?不必要を必要に代えられるのか?とにかく電源を入れっぱなしにしてみる。これを繰り返す内に、カセットテープのモーターが動き出した。CDデスクは一週間後に表示だけ出たが「NO desk」それを放置していたら、突然CDが音楽を奏でた。何かの偶然で作動したにすぎない。あきらめずに触れて係わって行こうと決めた。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」イザヤ42・3)折らないこと、消さないことが、道理にはある。  † テストされる。 「巧言令色すくなし仁」人前に立ち、表情豊かに、巧みに言葉を操る。これは人のする常套手段である。牧師もそういう立場にある。非のなき神の言葉を、語るのだからなおさらである。しかし、生ける神は、ご自分の言葉を語る者を「テスト」される。御言葉の重みにふさわしく語って欲しいからだ。ここに道理がある。即ち、人としての「徳」のない者に、神の言葉は、語るにふさわしくないからだ。人の評判や人気のために動機があっては「テスト」にまず受からない。「自分の義と賢さにすぎて」伝7・16)生きることでもない。次のことが出来る事である「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」 1コリ6・7)迫害者をも愛して祝福する。そこを現実に生きる事で、合格するかも知れない。福音の道理に立ち返る時にのみ「仁」あり、徳ありとされる。

「道理に立ち返る」(2)

「道理に立ち返る」(2) † 人の好まないこと。 人の好む事は何だろう?第一に「道理に適うこと」である。しかし、これには注意が必要である。私達の性情には、四角四面である事を好まない傾向がある。要するに真っ正直では、面白くない。歪んでいたり、イレギュラーする事に興味を持つのである。著名な小説家が言うのには、破天荒な人物こそ小説の題材である。と、真っ正直な道理に過ぎる人は、面白く書けないと、言うわけで、まさに好まれていないのである。私達は自分に即して、なにごとも都合良く振り分けて生きているのだ。社会や政治に期待することは、道理に適った正義を主張する。しかし、身近な生活では四角張った道理を求められるよりは、あれも、これもあっても良い緩やかな、アドリブのある生活が気楽なのである。しかし、根本には道理を置いていて、自分と家族の規範としているのである。私達の主イエスは、真理という道理に生きられた。しかも全き自由であられた。これこそが私達の立ち返る「道理」なのだ。全く片苦しくなく、笑いと喜びに満ちておられたのである。イエスは言われた「私の言葉にとどまるなら、あなたがたは本当に私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32-32)まず、この御言葉にまず立ち返りたい。  † 面白いことから。 時代が進むということは、どういうことを意味するのか。思うに低年齢化することである。私が主イエスと出会った60年前の常識は、前世代の蹈襲(トウシュウ)で、幾らか封建的であった。徒弟制度が生きており、男というものの尺度があった。また、男の遊びというものも公認されており、27才まで位に卒業し、所帯を持つために身を慎む。それが地域の目であり、監視のようでもあった。その中に若者の私もいた。しかし、私はキリスト者として、世的な男の遊びには赴かなかった。それで、その地域で珍しい男として知られたわけである。社会が容認する男の遊び、その面白さに浴した青年達は、心の内容が変わってしまった。どの様に福音を伝えても「にやにや笑った」男には別の世界がある、と言わんばかりであった。人間の道理(真理)が、ばかばかしく思えてしまう。この事が低年齢化している。男が一旦、面白い事にはまると、救いから遠くへ弾き飛ばされてしまうのだ。私はそういう多くの男達を見たのである。

「道理に立ち返る」(1)

「道理に立ち返る」(1)  † 人間的な道理。 信仰を持つ私達は、立ち返る必要があるのか?即ち、なにに、どこに、立ち帰る返るべきなのか?ということなのだが、ある人は、もはやそんな必要はない「なぜなら神は私達を救われた」からと言うかも知れない。しかし、私達は救われた後の生活の方が、誘惑と戦いに満ちており、その戦いに勝利するように聖書は書いている。確かに、主イエスの救いは完全である。イエスと共に十字架につけられた、極悪な強盗が「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」というと、イエスは言われた「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」ルカ23・42-43)要するに救われて、すぐに天に召されれば、この世の誘惑も、戦いもない完全な救いの中に住まう事が出来る。しかし、この世に生きる私達は、試練や誘惑を乗り越えるための信仰が、与えられている。それで、いつも神に立ち返る事が信仰なのだ。これを私の「人間的道理」とすれば、迷うことなく、正しい道筋を生活の中に思い起こし、勝ち進めるのである。  † 最大のチャンス。 今年は、世界で初めて無観客のオリンピック、パラリンピックが日本で行われた。内容が競技である限り、順位がつきものである。まず、参加する事が出来た一人一人が名誉ある選手である。メダルを獲得した選手は、勝者として、その名が世界に知らされた。思わされるのは、四年ごとの競技に、それほどのチャンスがないということである。さて、私達は神に召され選ばれた者であるが、主イエスに期待されている事は「勝利を得る者」となる事である。四年の間にと言う様な期限はない。不断に神を信じ、御言葉に聞いて従っているなら、勝利者の道を歩いているのである。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」 默3・21)私達には、この世で生きる最大のチャンスが、与えられている。主が招かれる場所が「主の御座」とは、何という名誉であろう。明らかに、主が自ら歩まれた道筋を言われている。召され、選ばれたと思うものは、主が伴われる勝利を得る道を、歩もうではないか。

「不動の錨により頼む」(7)

 † 点ではなく線。 点の繋がりが線であるならば、違いを区別するのはヤバイ事かも知れない。しかし、考え方として「点」としてか「線」としてか、では大きな違いが生まれてくる。人の一生を点として見る事も出来る。聖書も「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい」詩103・15)と、短さを、はかなさを「点」のように訴えていると思う。唯物論者には、人には永遠がないので、人生は火花の様なものと見る。物質の一部である人間も、その命も、点としか言いようがないと思える。しかし、私達は人生を、その生命を「線」と見る。人間の地上での時間は確かに短いが、それが終着だとは受け取らない。「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。・・」申命33・27)私達の人生や生命が、いかにも点の如く見られ、思われようと、永遠という住み家である神と、その腕が下にあって支え続けているのである。私達の不動の錨は、神が住み屋であること。永遠の線の如く生かされる事だ。今の人生の様々な節目を、大事な「点」として生きよう。あの事、この事の一つ一つを、大事にして全うしょう。  † 安息日がユダヤ人を守った。 AD70年より、ユダヤ人は祖国から諸外国に追放され、1800年間も異民族の中に住んだ。しかしユダヤ人である事を失なわなかった。この驚くべき事実は、5000年に及ぶ聖書の掟を、守り通してきた結果である。神を礼拝する安息日が、ユダヤ人を守ったと言うのである。トーラー(旧約聖書)とタルムードの教えを聞き続ける、このような習慣を「かたくなに」守り続けたのである。私達はクリスチャンであることを、頭で考える事は優しい。しかし、主日礼拝を守り、聖書の掟を守り、真理を学び続ける事は優しくはない。ユダヤ人のように「かたくな」に、掟を守り、礼拝を守る習慣を堅固にしなければ、何世代にも続くアイディンティテイ(同一性)を持つ事は出来ないだろう。「曖昧な日本人の私」(大江健三郎著)にある曖昧さを美徳としては、達し得ないと思うのである。最後に言える事は、不動の錨を創り出す賢者(私)になるには、実証したユダヤ人から学ぶべきだと思う。その、かたくなな習慣は、信仰生活を堅固にし、これからの教会の発展と宣教の不動の土台であるからだ。

「不動の錨により頼む」(6)

「不動の錨により頼む」(6)  †不動の証拠。 この世の中では、証拠がないと真実と認められない。刑事ドラマを見ていると、証拠がないのでアリバイを崩せない、と言う筋書きが多い。そして、科学捜査班が登場し、厳しい鑑定を通して証拠を突き止めて不動の証拠となるわけである。私達クリスチャンの告白している 「 地獄からの救い、永遠の命、死からの甦りの証拠はなにか? 」 と 問われるだろう。もちろん、主イエスの十字架と復活が揺るぎない証拠だと私達は言う。歴史的な神の出来事として揺るぎない証拠である。信仰とはその事実を信頼していることである。また、主イエスを生きている神 メシヤ と信じている私達には、神からの生命と力が与えられている。この事も揺るぎない証拠である。さらに神の与える揺るぎない証拠は、聖書の御言葉 神の言葉 と、聖霊 (神の霊) である。主イエスがメシヤとして、死から甦られた証拠は、それを語られていた神の言葉を その御言葉どおり、主イエスを死から甦らせた神の霊 (聖霊) の力である。現代の私達も 使徒達と全く同じ証拠を提出するのである。「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました」 2 コリ 5 ・ 5 )私達の不動の錨にハレルヤ!  †理論と実際。 私達の生活を司る時間は、いつから始まったのか? 物理学者は 言 う「無の状態から約 138 億年前の時点において、突然宇宙が出現した時からである」  それ以前には時間がないと言う事になる。私達は、神の創造としての宇宙が瞬間に造られたことを理解する。神は地球を選び、整え、ご自分に似せて、完全なる人間を創造された。だが、人間は罪を犯し死ぬべき存在になった。神は実際に人となって人間の罪を背負い 、 血を流し死なれ、人間を完全にするために、墓から甦り復活された。それは人間と、人間に狂わされた地球を完全に新しく創り直されるためである。新し くなる地球と宇宙の関連は、私には今の所わからない。ただ、神は「初めであり終わりである」永遠なるお方なので、完全な贖いである 神の審判 の後には、新しい天と地の永遠のみが存在する。神は、ご自身の息 (魂) を吹きこんだ私達人間を地球に造り、限りなく慈しみ、愛して永遠の存在にされるのだ。

「不動の錨により頼む」(5)

「不動の錨により頼む」(5)  † 見えない錨。 聖書で語られている「錨」は、船の錨のような不動のものだが、目に見えるものではない。その理由が書かれている「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」2コリ4・18)人間は、その命と、その人生に、一時的なものを不動の錨としてはならない。しかしながら、この世では、「不動の錨」とは、見える財産、通帳の金額、金庫の株券や金塊ではないか?聖書は、それが一時的で失われるものだから、執着すると、人生という船はバランスを失い沈没すると言う。聖書はさらに「・・・・私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11・3)神は「無」から「有」を呼びだされた。私達の生活で、富が錨のように見えるのだが、神は空の鳥を養われるように、私達の生活の必要を知り、備え、与えられるのだ。見えないが真実の不動の錨は、神の御言葉と御業を信頼することが不動の錨なのである。(マタイ6・33)  † 救い主イエスの信仰。 著名なスボルジョンが記している「私の信仰も私自身にはなく、キリストがどんな方であって、どんな事をなさり、また現在私のために何をなさっておられるかにある」(朝ごとに)使徒パウロも「[されど]人はイエス・キリストの信仰によりてにあらざれば、掟(オキテ)の行(ワザ)にて義とせられざることを知り、・・・・キリストの信仰にて我らの義とせらるるためなり。(永井訳)」ガラテヤ2・16)大方の聖書は「キリストの信仰(主格的属格)」を「キリストを信じる(目的的属格)」としている。信仰が義とする(私が神に受け入れられる義人になる)その信仰は「私自身にはない」即ち、主イエス・キリストの信仰である。私達は「キリストの信仰を信じる」ことが「不動の錨」となる。キリストの信仰が、私の中身になる事が重要である。キリストを信じる事が「目的」であると、罪の赦しと信仰義認が中心課題となる。しかし「キリストの信仰を信じる信仰」は、私達をキリストと質的に同じ内容にする。聖さ、品性、従順、キリストの持たれた力と権威にも預かる者に成長する。これが世に打ち勝つ信仰である。

「不動の錨により頼む」(4)

「不動の錨により頼む」(4)  † 人間の知恵と賢さ。 単純明快であると言うことは、愚かさを意味しているようにも取れる。賢さとは、重層的な複雑さにあるように思いこむ。単純である事をさけるのは、本当の賢さなのだろうか? なるほど、余りにも単純明快な小説では、面白くないと言われるだろう。ここでは賢さは重くて複雑である事なのだ。単純明快である事は、思慮に欠けている事を表すのだろうか?「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」マタイ11・25)これは、すごく面白い言葉である「賢い者や知恵のある者」と「幼子」が対比されている。これは今日でも同じではないか? とすれば、この世で賢くなり、知恵に富んで、いかにも重々しい人が、盲目にもなるのである。神の真理は、幼子のように単純明快に信じてる人に、明らかにされるのである。不動の錨とは、単純明快に信じた人の中に、主なる神が据えられるのである。年季(ネンキ)が積まれた賢さや知恵が深く重くても、それは不動の錨とはならないと言う事を、主は言われているのである。  † 信じる根拠。 使徒達は、聖書を私達に伝え書くときに、常にイメージしていたことがある。それは私達一人一人が、神の御前に立つ時の有様である。私の本当の終末は「死」ではなくて「神の御前で」評価を受ける時である。聖書は、そのため信仰に生きる道を教える。御言葉は、このように「終末(論)」の立場から語りかけているのである。ゆえに教会の使命と、宣教の在り方が確立してくる。所が、悪魔はそれを邪魔をする。私達に「世に在って幸いであること」の信仰を求めさせる。なぜならば、その様な教会と信仰は、この世の事柄と生活に置かれるので「神の国」を築けないからだ。私達の信仰が「神の御前に立つ」終末的であるならば、使徒的な信仰が教会となり、コロナ時代にも、神の国は力強く前進する。不動の錨の力は、悪魔の支配するこの世の誘惑と試練に対して、戦う私達の中に真価を現す。揺るがされることがなく、私達は神の御心を行い、主イエスの復活の福音を喜び、聖霊のお働きを、私達の交わりの中に見るのである。

「不動の錨により頼む」(3)

「不動の錨により頼む」(3)  † 畏れを知ること。 「恐れる」とは危険を感じ、不安を感じる。恐怖心を感じる時に恐れることである。誰しもが体験してきたことである。もう一つの「畏れる」は、近付きがたい畏敬の思いで「かしこむ(恐れる)」ことである。私達クリスチャンは、神を畏れる人種なのである。・・・ある信徒が語ったことであるが、旧約の神は罪に対して厳しく、罰を持って報いられる恐ろしい神だ。新約の神は、罰する罪を赦される、優しい神だ。なるほど当を得ている。しかし、この発言の中にあるのは「恐れ」である。愛が恐れを取り除いた如くであるが、私達は、これほどに愛を注がれる神を、近付きがたい神として畏れる。そうでなければ、まともな信仰生活は出来ないのである。主イエスに対しては、私の救い主であるが、身近な友達のように受け入れて愛している。「気さくなイエス様」なのである。恐れの対象では全くない。・・・救い主(メシヤ)に対して「畏れる」こともなく信じており、愛している。この安易なキリスト教(福音主義)は、神を畏れるという重み(錨)を失っている。ゆえに魂も軽い。主イエスへの真実な畏敬を回復するには、静まって自ら、思い巡らす必要がある。「神を捨て人になる」とは、・・・畏れかしこまなければ、見えない世界である。  † 告白と宣言。 どの国も法律を持って国事を行っている。自らの国は法律の文言の如くであると、宣言し告白しているわけである。この法律が要となり、国家は成り立ち安定する。ゆえに「不動の錨」となる。法律が機能しない国と社会は、暗黒に包まれる。クリスチャンであると言うことは「聖書を読む、礼拝を守る、祈る、献金する、証詞をすること」などで正当性を表している。しかし、それだけで安心してはならない。あなたの人生(信仰生活)の使命宣言を明確にし、明記することである。自分に対し、世に対し、悪魔に対しての、自分のミッション(使命)を明記し、神に捧げるのである。自らの成長に応じて、使命宣言はさらに書き換えられ、キリストの身丈に近付くのである。洗礼を受けていても、この宣言文が書けない事に気が付く、「私を、私にする」それは、自分の宣言である「使命宣言(ミッション・ステートメント)」を書くことだ。それによって、信仰を表明し確かな、揺るぎない魂の錨を、人生の中に持つようになるのである。