† 主にある忍耐を持て。
 このタイトルは、多くの人の共感を得るものと思われる。忍耐の出来ないままに生きている人が多いからである。人は、心に湧き上がる感情のままに、言葉にし、行動にしたらどうなるか、想像するだけで身の毛がよだつ。しかし、理屈では解っていても、実際には忍耐が出来ないで、角張った生活をし、感謝や喜びとは、かけ離れた心境を生きている人が多いのである。忍耐する、と言うことは被害者の立場におかれるということにもなる。しかし、神の言葉による「忍耐」は希望が伴う故に、耐え忍ぶ、忍耐である。信仰によって、心が変えられた人には、主にあって耐え忍ぶ力がある。主を信じていても、心が変えられないままの人は、忍耐の力(美徳)がない。「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」ロマ5・4)霊的な忍耐を重視しない人は「練られた品性」に進めない。更に、真の希望が生まれないのである。神を心から敬い、畏れるのでなければ、主イエスに喜ばれる忍耐は生まれないのだ。神に従い、神に生きるために、様々な事柄や、特に人間関係で忍耐が必要なのである。「どうか、主があなたがたの心を導いて、:神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」2テサロニケ3・5)主に叫び求めて、主と同じになりたいと思う。

 † いつまでも乳飲み子。
 成長しリーダーになるのだ。と言われて若者は励んでいる。成長するということは、過去の過程を置き去りにすることではない。最近、ある方とよく話をするが、その方は幼少期から、愛から遠ざけられ、惨めで寂しい環境で育った。幼少期に愛を注がれない人は人格に大きな欠陥を持つ。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」1ペテロ2・2)幼年期に愛を知らず、成人してしまっても、主イエスから「霊の乳」を慕い求めて、神の愛に全うされると、人の痛みを知る、まことのリーダーの資質を持つ者に変えられる。キリストの霊的リーダーは、単なる優秀さではない。主イエスの霊の乳をいかに飲んだか、いかに自らの成長の根源になっているかが大事なのだ。「救われる」と言う意味は、自らの魂と人生が、神の中に全うされる。と言うことである。

「保ち続けること」(6)

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