† 主なる神の決めごと。
私達も多くの決め事によって、秩序ある平和を保つ事が出来る。その決め事が、愛に根差し誠実に根ざしているならば、恒久的な秩序を保つ事が出来る事が解っている。イザヤ66書1節「・・・あなたが私(神)のために立てる家はいったいどこにあるのか。私の安息の場は、一体どこにあるのか」と語られる。2節「-主の言葉-私が目を留める者は、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、私のことばにおののく者だ」イザヤ66・2)とある。これは、主なる神が定められていることである。家は住まうところであると同時に「安息の場」である。それは何であり、どこにあるのか?という重要な内容であることに気がつく。「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」1コリント2・11)次のように言える。人間は、神を恐れおののくことによって神の御霊を宿す、そして神の思いを知れる者になる。神の定められている決め事は、変わらない事を。しかし、人間の多くの場合に見られる間違いは、神が定められている「あり方・根拠」を、思いもせず、考えてもしない。体験もないのだ。簡単に言えば「神を恐れおののいていない」ことにある。今、あなたの最重要は何なのか?
† 義務と責任を果たす。
この現代に、現れてきたことは「義務と責任」を回避する社会傾向である。政治家が権力を握るため、自身のためだけに、活動し奔走する。国民や国家のことなどは、二の次なのだ。私達の世界でも、個人的な義務や責任をズルけても、何も言われないことを味わうと、その生き方を踏襲してしまうのである。特に、神の子供として選ばれた私達は、神と兄弟姉妹に、この世に対しても義務と責任を求められている。聖書はそのために書かれているのだ。誠実に生きる事を心に留めよう。自分の肉的な力に負けないよう、努力する者になろう。それで自らに幸いをもたらし、輝かしい世界を建て上げて行けるのである。確かに労苦することは、寝そべっているよりは、しんどい。しかし、考えても解るように、与えられている能力や体力を共同体のために捧げる事は、主なる神からの称賛を受ける体験となる。人生の達成感となるのだ。


