† 人の心について。
空の星のように存在しているのが私達だと考える。星と違うのは一人一人が固有の人格であり、心を持っている。ということだと思う。私の身近には、多くの知り合いがいる。なんと幸いなことだろう。
幼子との付き合いもあり、彼らとのふれあいの中で、一人一人の成長を見て取れる。体格の成長ばかりではない、言葉の中に、表情や瞳の中に、見えない「心」を感じるのである。清らかで美しい成長を見るのである。大人は歪んだ世界の中で、様々な防御をしながら「心」を生きている。それでも私達は幸いである。教会に連なる全ての方々は、同信の仲なので、共通項が俄然多い。世代を越えて、男女を越えて語り合える幸いは絶大である。十代や二十代の姉妹達とも、心を繋げて話が盛り上がるのは、信仰があり同じ道の上を歩んでいるからである。それでも、ほとんど会話が無いままの方々もいる。心の中に何を思い何を感じているのか? それはとても気になることなのである。思いも掛けないことが心に起こっている事もあるからだ。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」ヨハネ15・16口語訳)近づきがたいと思う人ほど、近づいて言葉をかわすことが重要である。見えていない心を理解して、愛するために。
† 影の労苦。
私達の生活を考えても、如何に多くの方々の手を借りて支えられていることだろう。私達の身近で特に目立たないけれど、大切な労苦を惜しまないで尽くしてくださっている方々が大勢おられる。父が入院した病院で、隣室の一人の婦人が亡くなられた。看護婦さんが整理に来られた。ただ、仕事をするためとは思えない光景に心を打たれた。しばらくたたずまれ、涙を拭われ、無き故人を愛おしむようにベットを整理されたのである。目には見えない「心が伴った労苦」を見せられたのであった「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」ルカ16・10)私が通り過ぎてしまうのは、影のように労苦しておられる方々に違いない。その方々に主イエスの祝福は大きい。しかし、それに甘んじて無関心でいては、主イエスの御目に、私はとても薄弱な者として数えられるだろう。


