† 幸いな食卓にあり。
私の幸いは、処方箋による医薬品を飲用したことがないことが挙げられる。もちろん抜歯の時には痛み止め薬はやむを得なかった。それほどに体調が守られてきたことに主に感謝する。その基本となるのが食事であり、大きな要因なのだ。私の個人的体力は人並みの普通で特別ではないからだ。これは食事を考えて作る、妻の労苦が高く評価される。美味しいものを作るという以上に、年齢に応じた食材や料理を心掛けていてくれるからである。私の健康で在り続けられるのは、妻の功績であって、私の何かではない。鶏のレバー料理などは、好みではないが、出されるものは必ず食する。また、一週間に一度は、外食をするが、二人で「岐阜ローズガーデンガーデン」を散歩してからだ。この散歩は年中続けている。習慣は身近なことで当たり前のことになる。その連続は自然で、普通となり、気にもせず、見えなくなる。食事も同じで、健康のための「いつも通り」が善いのである。数々の惣菜と朝の主食「オートミール」は30年以上、ケフィア菌と黒砂糖で作る酵素水は20年以上摂っているが、当たり前で、気付かない程に、見えないものになっているのである。
† 誘発される必要。
私達はクリスチャンとして求められていることは「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」ピリピ4・8)6回にわたり「すべて」が用いられている。主の御心に適う全てに心を留める。それをするのが私達なのだ。「・・・に心を留め」なければ、信仰的、霊的に誘発される機会を失ってしまうのである。見る、聞く、読む中に、無限に散りばめられた、神の御心に適う事柄に心を留め、その源である主なる神の、慈しみと憐れみに、私達は結びつけられるのである。その逆は、人の噂話やゴシップである。現実、どちらが勝っていか?恵みに生きられる人は、6回の「全て」の内容に心がある人なのである。


