† 当たり前のもの。
当然として意に介さないでいるものは多いと思う。毎日の食事を神からの糧として、真心からの感謝の祈りをしているのか?たぶん祈りは「付け足し」程度のものではないだろうか?食品は金銭で買えるものとして、主なる神が与えてくれるものとは考えられないでいる。「・・・「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる」創1・29)驚きなのは、世界の83億人の食物が、賄われていると言う事実である。自然の恵みという以上に、神の創造の御心に感謝を捧げたいのである。確かに人間の管理が、行き届かず、近年は山林の動物が、農地や町の近郊に出没するようになった。これらのことは、農業、林業に対する国の政策に左右されてのことである。獣も鳥も、およそ「生命の息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える」創1・30)と、生き続けられるように、主なる神は配慮されたのである。これは、子供のための教育ではない。恵みの具体的な実際なのだ。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」1コリ10・31)私達は魂のみではなく、身体を持って神の栄光を現すのである。
† 古きを生かす。
新しいものには、今までにない新機能が内蔵されている。悲惨な交通事故を見るたびに、車に安全機能が付いておれば回避できたのに、と思ってしまう。間もなく日本にも、プロのプロ級の運転手と同等の運転をする自動運転技術が、搭載された車が出てくる。すでに実験済みである。安全ということでは、新しきに勝るものはない。しかし、ありすぎる機能を使いこなしきれない機器もある。パソコン歴は40年以上だけど、備わっている機能の全てを使いこなしているわけではない。CPUは14世代へと進化している。保有の一台のPCは4世代のCPUだけど、最新のOSで動いている。ノートPCは2010年製で間に合うようにしている。「そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」マタイ13・52)古きも十分に生かされるのである。


