† 戒めの約束に溢れる人。
 「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」詩119・97)私達クリスチャンの幸いは、昨日も、今日の一日も、そしてこれからも、神の戒めを守る事に伴う神の約束と愛が、深い慈しみとなっていることである。「私の思い」が神の戒めを畏れることに伴う祝福で、満たされているならば、主なる神も、また、その人を大いに喜ばれる。詩篇記者は、そればかりではなく「私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています」120節)肉(肉性)とは、世に生きる私自身である。私が神の御前に立つ最終の「裁きの座」のことだ。神の真実な恐ろしさを知らないでは、神の子として誠実に戒めを喜びとする事は出来ない。毎日、毎日が、10年、30年、60年と、螺線的に続いてキリストの身丈に近づくことが出来るからだ。使徒達の宣教の動機には、キリストの裁きの恐ろしさがある。「このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。・・・」2コリント5・11口語訳)罪を赦された者は、主イエスの敬虔な品性を与えられている。そのためには、聖書の戒め全般に心を注ぐことである。神の憐れみと慈しみの尊さを、より深く、与えられるからだ。

† 人生を賭けた知識。
 1959年19才で聖書とキリスト教を知った。当時、伝えられる事は純粋な福音だが、自分の人生の課題を克服するには、余りにも知識がなく説得力に欠けるものであった。曖昧なまま進まないように聖書を知ること、キリスト教を知ることへの挑戦が生まれた。人生を賭けて悔いなき実体を得るためだ。これが「信仰の確信」への、生涯学習となった。まさに真理が螺線的に重複しながら「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」 エペソ3・18-19)と、知識のみならず十字架体験、聖霊体験としての「しるしと不思議」を現す賜物さえ与えられた。キリストに人生を賭けて、求めて学ぼうとしたら誰でも、悔いのない信仰の確信と、神の生命と力を識るだろう。

「螺旋(らせん)状的信仰」(3)

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