「私の帰すべきこと」(3) † 愛される責任。 愛される。と言うことは、自らの自発性ではなく、愛することを選んだ人格の意志によってもたらされるものだ。ゆえに「私は愛されるべき者である」と言う自覚や根拠を自らのうちに持たない。愛とは深遠なるものである。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」1ヨハネ4・10)もちろん、疑似的な愛というものがある。男が異性を慕うように、惚れる、好きになる、という自分の欲求のために求める愛である。そういった形でも「愛されている」と、人間は感じている。しかし、多くの場合、その人の全てを、受け容れているのではない。その人の欠点や隠れている気質、未成熟さなどが結果的にクローズアップされてくる。人間に有る愛は、決して完全ではない。しかし、神は私を「愛した」。不完全極まる罪人で、愛される資格も根拠もない私を。神は、真実に今も、愛して下さっている。それだから、心から感謝と畏れを持って、神の愛に応えたいと生きている。しかし私は、人に対して「私は愛されるべき」という要求の根拠を持てない。愛の在り方だと思うからだ。 † 隠されてする事。 だれにも知られずに、重要なことをする。このような人々によって、世界は成り立ち、動いている。一方、全ては自らの業績のように今頃の情報ツールを使って、拡散する人もいる。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」マタイ6・1)確かに神に知られていることに留めることは、霊性を高められ、人格の重みを増すように教えられる。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタイ6・3)さらに、自らの善行を、忘れ去ることである。そこには清らかさが漂う。信仰が創り出す品格が、見られるようになる。人の評価ではない、神の評価に生きられるようになる。身近な人の讃辞は、さほど重要ではない。「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」ルカ8・17)隠された善行は、ある時、驚きを持って明らかにされるのだ。
「私の帰すべきこと」(2)
「私の帰すべきこと」(2) † 初めが肝心。 初めに失敗があると、後が上手く行かない。それで初めが大事(肝心)なのである。何かに取りかかろうとするなら、その段取り(工程)を正確に定める。人間が人生について考える時期は、大まかには思春期くらいか。日本人は、この頃までに、しっかりと唯物的世界に浸って、思考し世界を見つめている。ここから「初めが肝心」なので、さしあたり勉学が優先する。ミッションスクールでは「初めに、神が天と地を創造した」創1・1)に出会えるが、ほとんどの日本人には縁がない。初めに、とは「原初に」である。原初に、すでに天と地があったのなら、神は、その後の存在でしかない。しかし「原初に神が天と地を創造した」この事実は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11・3)人間として生きるために、肝心なのは、宇宙と世界は、神の創造物であるという認識である。でなければ、お決まりの唯物論の認識で生きるしかない。どれ程の高い知性も魂も、物質同様の結末しかない。常に自らの人生が、神の実在と創造世界に帰結すること。これが肝心だ。 † 先人の労苦。 最も学識を必要とするもの、それは「聖書の解釈」である。神の言葉が命を持ち、力と光を放つのは、盲信のゆえではなく、健全な御言葉の解釈があるからである。私達の聖書(神の言葉)には、二千年にわたる連綿とした研究が続いている。考古学、歴史学、言語学、民俗学、自然科学を、初めとする様々な研究が、神の言葉を成り立たせている。当然、あらゆる攻撃がされてきた。今、聖書と接する私達は最先端の聖書学に裏打ちされた、確かな神の言葉を手にしている。人間は色んなものに信頼を置く、金銭はその筆頭だろう。財産も同じ、今の健康にも信頼を置いている。しかしながら、神の言葉ほど信頼のために尽くされた学問はない。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」1テモテ4・9)自分は、先人の限りない労苦の恩恵を受けて、疑いなく三位一体の神を信じ、御言葉を信じている。心を騒がせることなく生きる、真実な道である。残された生涯を「御言葉の言うとおり」 に、帰するつもりである。
「私の帰すべきこと」(1)
「私の帰すべきこと」(1) † 自分に帰する間違い。 「イエスは答えられた。『わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。』・・」ヨハネ8・58)主イエス様の生涯の目的は、ご自身の神々しい栄光に尽きるようだが、そうではない。自らのすべての誉れを、父なる神に帰することであった。私達が何か誇れること、自分だけが出来る事、賞賛されることは、自らの優秀性だと思える。しかし、主イエスは言われる「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と、使徒パウロは言う「誇る者は主にあって誇りなさい」2コリント10・17)と、世間一般で言う人間とは、かつての栄光から遠ざかり、年と共に生きがいと、誇りを失ってゆく、悲哀に満ちる、わびしい人生を迎えるのである。と、周りを見れば、そのような人々で満ちている。しかし、それは「自分に帰する」間違った生き方である。私達は、すべてを(誇りも)神に帰する。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」1コリント1・30)自らのもの、全てが、主イエス・キリストの中に輝きわたっている。自らに誇れるものがあるとすれば「自分の弱さを誇ります」2コリント11・30)なのだ。 † 平安の源。 私は罪人であって善人ではない。自分の思い通りに生きられる環境にいれば、それほど罪人だと思わずに、平安に生きるかも知れない。所が、多くの必要を求められるところでは、答えていない、落ち度の多い罪人でしかない。自分が、不平と不満を与えている存在でしかないのである。キリストには赦されても、人には赦されていないのである。要求の本質は、律法に似ていて、赦しも憐れみもない。地上は、キリストに在ってのみ天国である。また、キリストに在って、赦し合える所では、平安に生きられる。しかし、現実に善人と思えない、自分のために、どうするか悩む。そんな時、主なるイエスが「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5・7)と、語りかけて下さった。主イエス・キリストの中に「向き直る」ことが出来た。キリストにある幼子として、主に背負われて義人とされている。この揺るぎない平安の中に留まる。これが自ら帰する、平安の源である。
「私の帰すべきこと」(1)
† 自分に帰する間違い。 「イエスは答えられた。『わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。』・・」ヨハネ8・58)主イエス様の生涯の目的は、ご自身の神々しい栄光に尽きるようだが、そうではない。自らのすべての誉れを、父なる神に帰することであった。私達が何か誇れること、自分だけが出来る事、賞賛されることは、自らの優秀性だと思える。しかし、主イエスは言われる「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と、使徒パウロは言う「誇る者は主にあって誇りなさい」2コリント10・17)と、世間一般で言う人間とは、かつての栄光から遠ざかり、年と共に生きがいと、誇りを失ってゆく、悲哀に満ちる、わびしい人生を迎えるのである。と、周りを見れば、そのような人々で満ちている。しかし、それは「自分に帰する」間違った生き方である。私達は、すべてを(誇りも)神に帰する。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」1コリント1・30)自らのもの、全てが、主イエス・キリストの中に輝きわたっている。自らに誇れるものがあるとすれば「自分の弱さを誇ります」2コリント11・30)なのだ。 † 平安の源。 私は罪人であって善人ではない。自分の思い通りに生きられる環境にいれば、それほど罪人だと思わずに、平安に生きるかも知れない。所が、多くの必要を求められるところでは、答えていない、落ち度の多い罪人でしかない。自分が、不平と不満を与えている存在でしかないのである。キリストには赦されても、人には赦されていないのである。要求の本質は、律法に似ていて、赦しも憐れみもない。地上は、キリストに在ってのみ天国である。また、キリストに在って、赦し合える所では、平安に生きられる。しかし、現実に善人と思えない、自分のために、どうするか悩む。そんな時、主なるイエスが「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5・7)と、語りかけて下さった。主イエス・キリストの中に「向き直る」ことが出来た。キリストにある幼子として、主に背負われて義人とされている。この揺るぎない平安の中に留まる。これが自ら帰する、平安の源である。
8/13 天野弘昌師来会
8/13 天野弘昌師来会 8/13の礼拝にゲストとして草加神召キリスト教会主任牧師の天野弘昌師が来会されます。 天野弘昌師はその日のメッセージを持たれます。 8/13の礼拝は10:00からの1回のみになります。 ※7/15と記載していましたが、8/13に訂正します。 天野弘昌師プロフィール 高校生の時イエス様に出会う。その後、米国ワシントン大学卒法政大学卒、英国ケンブリッジ大学留学を経て、米資系銀行に入行。クリスチャンとして主の証詞をし続け、牧師になる
2023年中高生サマーキャンプ「Wave」
2023年中高生サマーキャンプ 中高生サマーキャンプがあります。 テーマ「Wave」!! 聖霊の波に乗って福音を多くの人に届けよう。 講師は草加神召キリスト教会主任牧師の天野弘昌師です。 日時:2023/8/13(日)~15(火) 場所:旭高原自然の家 費用: 中学生:8,500円 高校生:9,500円 一般: 11,000円 費用には交通費・保険代を含まれます。 締切:7/30まで 詳しくは可児福音教会まで 天野弘昌師プロフィール 高校生の時イエス様に出会い、その後、米国ワシントン大学卒法政大学卒、英国ケンブリッジ大学留学を経て、米資系銀行に入行。 クリスチャンとして主の証詞をし続け、牧師になる。とにかくすごい牧師先生です!
「果たすべき事」(7)
「果たすべき事」(7) † 今からの最重要。 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」エペソ6・10)使徒が最後に言い残す言葉ほど、重みのある言葉は無い。原文直訳では「最後に、主に在って、また、主に内在する力の積極的な効力において、絶えず強められなさい」となる。主イエスとの、結びつきにおいてのみ、着せられる力なのだ。賦与される、与えられる力は、満々と主イエスに顕在している。この世に生きる私達の、戦いのために用意されたのだ。第一に、罪と死の力を持つ悪魔に対して。第二に、世の力と、自らの肉性の力に対してである。なぜならば、人間の努力する力では、対抗し得ないからである。主イエスと結びついてのみ、私達は力を付与され、勝利できる。使徒は「強められなさい」というように、主に顕在する大能を、私達は与えられるのである。それでなければ、どうして悪魔の力に対抗出来よう。主イエスは、積極的に、ご自身の大能を私達に、与えようとして下さっている。主イエスが、進んで私達を強くするのである。この主イエスの御心を喜び感謝して、強められ、戦いに打ち勝ってゆきたい。 † 言葉のみではなく。 同じクリスチャンで、同世代の牧師が教えた「私達は神の力を見せる」と、聖書に書いてある。と言うのではない。書いてある通りに「神の力を見せる(実演する)」と言うのである。度胆を抜かれる思いがした。37年前のことだ。・・・確かに「神の国はことばにはなく、力にあるのです」1コリント4・20)また「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」 1コリント2・4)と聖書は語っている。福音は生きているので、当然、力を伴っている。私達も、今の時代に共有している。ただ信じていても、力が伴わないだけである。主イエスが現した力ある御業を、聖徒達は、どの時代にあっても現した。使徒パウロの言う「私の福音」には、揺るぎない福音の教えと「神の御霊と御力の現れ」の実演が伴った。現代のクリスチャンにも、聖霊様の力あるお働きを通して、神の実在を見、確信して貰いたい。それは、神の現存を、法的に証明する実演なのである。何を言われようと、主イエスの恵みにより、聖霊の御力の現れを、与えられいるからである。
「果たすべき事」(6)
「果たすべき事」(6) † 知ることに進む。 「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」伝道1・18)人生は、知恵と知識で憂いの多いものになるのか? 知恵者(ソロモン)は、無知や、愚かである方が良い、とは言ってはいない。問題は「知恵」の質である。「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです」マタイ12・42)ソロモンに勝る「知恵」は、主イエスご自身である。「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」ヤコブ3・17)主イエスは、死に至るまでの従順をとおして、私達が神に生かされる、真の知恵と成られた。人間の知恵や知識では、神との和解は生まれない。主の犠牲(十字架)で、私達は神と和解し、神の子供と成れたのである。「・・・・キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」1コリ1・30)主イエスを知る知識こそ、私達の真の幸福を生みだすのである。全力を尽くして、主を知る知識に進もう。 † 限界を知りつつも。 私達は本当の意味で限界を知らない。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」 ヘブル12・4)元旦の寒中水泳に参加できる人は、訓練に耐えた者で、身を切る氷のような冷たさに耐える人だ。私達は、どの様な痛みの中、失望の中、喪失と悲しみの中でも、主への信頼を持ち、感謝と、主への喜びを告白できる信仰を理想とする。先日、気温34度の中、荷物を背負い、坂道の石段を上り下りした一万五千歩は、老体には限界に近かった。しかし、それに勝る喜びがあった。美しい庭園、見事な景観、初めて見るもの、聞く事が、疲れを忘れさせた。この事を通して教えられた事は、私達に最上級の希望と喜び、そして現実に絶えることのない神の愛が注いでいる。これは宗教用語ではなく、生きている現実である。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4・4)この主の喜びに、実存し生きれば、限界に打ち勝つ。