「果たすべき事」(7)

† 今からの最重要。
 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」エペソ6・10)使徒が最後に言い残す言葉ほど、重みのある言葉は無い。原文直訳では「最後に、主に在って、また、主に内在する力の積極的な効力において、絶えず強められなさい」となる。主イエスとの、結びつきにおいてのみ、着せられる力なのだ。賦与される、与えられる力は、満々と主イエスに顕在している。この世に生きる私達の、戦いのために用意されたのだ。第一に、罪と死の力を持つ悪魔に対して。第二に、世の力と、自らの肉性の力に対してである。なぜならば、人間の努力する力では、対抗し得ないからである。主イエスと結びついてのみ、私達は力を付与され、勝利できる。使徒は「強められなさい」というように、主に顕在する大能を、私達は与えられるのである。それでなければ、どうして悪魔の力に対抗出来よう。主イエスは、積極的に、ご自身の大能を私達に、与えようとして下さっている。主イエスが、進んで私達を強くするのである。この主イエスの御心を喜び感謝して、強められ、戦いに打ち勝ってゆきたい。

† 言葉のみではなく。
 同じクリスチャンで、同世代の牧師が教えた「私達は神の力を見せる」と、聖書に書いてある。と言うのではない。書いてある通りに「神の力を見せる(実演する)」と言うのである。度胆を抜かれる思いがした。37年前のことだ。・・・確かに「神の国はことばにはなく、力にあるのです」1コリント4・20)また「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」 1コリント2・4)と聖書は語っている。福音は生きているので、当然、力を伴っている。私達も、今の時代に共有している。ただ信じていても、力が伴わないだけである。主イエスが現した力ある御業を、聖徒達は、どの時代にあっても現した。使徒パウロの言う「私の福音」には、揺るぎない福音の教えと「神の御霊と御力の現れ」の実演が伴った。現代のクリスチャンにも、聖霊様の力あるお働きを通して、神の実在を見、確信して貰いたい。それは、神の現存を、法的に証明する実演なのである。何を言われようと、主イエスの恵みにより、聖霊の御力の現れを、与えられいるからである。

「果たすべき事」(7)