「信のまこと」(6) † 聖書に書いてある。 主イエスの生涯の根拠は聖書に「書いてある」という一事に置かれている。信仰を突き詰めれば、同じように「聖書に書いてある」と言うことが、生命の道なのである。「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある」マタイ4・10)悪魔の巧妙な誘惑に対する、決定的な対処であった。主イエスは、神の子として、神の言葉と一体であられた。それほどまでに、御言葉を根拠とするのが「信(まこと)」なのである。主イエスにお出来になったことが、私達の出来る根拠となる。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」ヨハネ14・12)主イエスの言葉が「書いてある」ごとく、私達にも信じて行う根拠となっている。これは主なる神の、驚くべき憐れみの豊かさである。罪人の私達に、どうして神の業ができるだろう? あり得ないことである。だが神は御子イエスの完全な贖いのゆえに、私達を聖い神の子として受け容れ、御言葉の約束の特権を、行わせて下さるのである。神を畏れかしこむ者には、聖書に書いてある事は「信」であり、すべての根拠なのである。 † 状況倫理と真理。 聖書は、神の霊が書かせた書物である。しかも1500年間にわたり、40人の著者によってである。しかしながら、主旨が一貫している、一筋の流れのように、神の霊が導いているからである。明らかに様々な歴史の中で、聖書は綴られた。ギリシャの神々と文明、ロマ帝国下にある教会の赤裸々な問題について、書簡(聖書)が、状況打開の教えを宣べている。世界に産声を上げたキリスト教会は、腐敗した多神教の道徳と一線を期して、純潔の愛の業を明らかにしていったのである。異教の習慣を持って、教会に入り込んできた女性達(コリントやエペソの教会)には、その時代の状況に合わせた、特別な対処(倫理)が宣べられている。現代に見合わないが、時代に見合う倫理を必要としたのである。聖書の矛盾と捉える必要はない。聖書は、唯一の世界基準である。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」 2テモテ3・16)
「信のまこと」(5)
「信のまこと」(5) † 御国の心地で生きる。 信仰生活の「信(まこと)」とは聖歌467番「悲しみ尽きざるうき世にありても、日々主と歩まば御国の心地(ココチ)す」の歌詞の通りである。私達の唯一無二の特権が、希望に満ちて賛美となる。確かに私達は福音を聞いているが、先代の持っていた信仰の内容と確信が見られなくなって来たように感じている。自らも含めて信仰を掴み直したいのである。まず、私達は主イエスと共に歩む旅人である。今、主イエスの同行者として、私達は、この罪の浮世を、外国として巡礼の旅をしている。私達は、罪人の住み家「この世」に、縛り付けられていたが、主が滅び去る世と罪から、私達を引き離して、救い出された。信仰の「信(まこと)」は、この世に望みを置いて定住を願い「御国」への旅を避けてはならない。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」ピリピ3・20)主イエスは、私達と同行して下さり、エマオの途上(ルカ24・27)でのように、道々にお語りくださる。私達の心は内に燃えて、地上の何にも優る.平安に満たされるのである。聖歌467番の折り返し「ハレルヤ!罪咎(ツミトガ)けされし我が身は何処(イヅク)にありても御国の心地す」と、これを信仰の「信」として歩みたい。 † 言葉と行い。 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」1ヨハネ3・18)この使徒の勧めは、父なる神の家族としての在り方を示す。ここには、衣食に事欠く貧しい人々がいる。住む家のない人々がいる。遠くから来ている旅人もいる。一方、豊かな環境に恵まれている私達が置かれている。困窮は個人の責任と思うなら、私達は「失われた者」になる。私達が主イエスを愛するなら、今は、乏しくある兄姉に具体的に、愛を施すことで、キリストに、ふさわしい特権を得るのである。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」マタイ25・40)主に在る友に施す特権として、主に喜ばれたい。私達の教会は「オファリング」と「バルナバ活動」を通して、神の憐れみを現す仕組みがある。それ以上に、私達が主に在る兄姉を、愛し顧みる特権を忘れず、生きる存在でありたい。
「信のまこと」(4)
「信のまこと」(4) † 理性と霊の啓示。 理性は本来、人間に備わっており、道理によって物事を判断する、知的能力である。私達はよく「神の御心」という言葉を使うことがある。その意味の中に「客観的」という内容が含まれている。使徒達も、神の御心に従おうとした。使徒16章では、アジアに赴くことを、御心と信じていたが、聖霊によって禁じられた(7節)そして、パウロは夢で、霊の啓示を受け、ヨーロッパ(マケドニア)に赴き、宣教を開始した。「信」には、理性的であること、即ち、道理に基づく判断が求められる。しかし、それだけではなく、神の啓示(霊の導き)を求めなくてはならない。当然ながら、物事は私達が主導しているのではなく、主なる神であるからだ。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)このように、私達は、神の御霊から啓示を受け、導かれる存在なのだ。創世記の後半はヤコブの生涯が書かれている。ヤコブの長い人生を導かれ、啓示を与えられた、神の慈しみが明らかになる。目がかすんで見えないヤコブが、死の前に、ヨセフの息子マナセとエフライムを祝福する。右手を弟のエフライムに左手をマナセに、手を交叉したのである。ヨセフは「父上、そうではありません」と、手を換えようとした。ヤコブは「わが子よ私にはわかっている」と言い、祝福を受ける順位を神の霊によって、預言したのであった。 † 手にするまで。 「信」にたどり着く、という意味では、仕事上での改善、改革やシステムの見直しなどがある。「信」を見据え、手にするには様々なハードルを越える必要がある。古い環境を、新しい環境にする機会があった。WIN10をWIN11に移行するのに、今までにない幾つかのハードルがあった。今までのWindowバージョンアップへの移行は知識を必要とはしなかった。しかし、この度は、知らないことを知ることに始まり、幾つかをクリヤーして、遂に「信(あるべき形)」にたどり着けた。私に出来る事は、誰にも出来るわけで不思議ではない。WIN11は高速になっているし、マックのような画面構成となり大きく変わっている。今回の挑戦は、忍耐というか、あきらめないことが、ハードルを越える鍵になった。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」 ヘブ10・36)霊的「信」は、日常の具体的な労苦からも学べると知った。
「信のまこと」(3)
「信のまこと」(3) † 偽りがない。 「信」とは、偽りがない。信義。という意味を持ち、信仰という内容でもあり、すごく重みがある。人が「信」とするものは、揺るぎないその人の真実となる。それをわかりやすく言う言葉が「イワシの頭も信心から」普段から見れば、イワシの頭は、つまらないものだが、信じる者には、尊くありがたいものとなる。人の信仰を皮肉って言っている言葉でもある。ここでは、人の信じるものが「信」となる事を言い表している。重要なことは、人の「信」とは別に「信」がある事だ。天地創造の神ご自身は、人によらない「信」であり、真実である。私達もキリストを「信(偽りがない)」と信仰しているが、私の信心で神とされたのではない。宇宙の創始者であり、人間を創造された神は、ご意志をお持ちであり、行動されたことで、まことの信義を現された。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」1テモ1・15)神が、罪人である私達のために来られた。これこそが、そのまま受け容れて良い、まことの「信」である。日本人は、対象よりも、人の信心が「信(偽りがない)」となる。この日本人の、信心の構造を解きほぐす力が、福音宣教に必要である。 † 自らが実験台。 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)今も、そうなのだが、本当に実感的に神の中に生きているのか?と自らに問うのである。ある意味で実感がなくても「御言葉の言うとおり」なのである。あるいは「主と共にいる」という内容はどうであろう?これについても「インマヌエル(神は私達と共におられる)」マタイ1・23)とある通り、神が共にいて下さるのだ。多くの著名な神の人も、主が遠くにおられるように感じる時があると、告白している。また、主の臨在が濃厚なときには「・・・・手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです」 1サム10・7)という、主との特別な蜜月がある。主の近くに住む者は幸いである。いろいろな時が恵みなのだ。渇いているならば、潤す聖霊が訪れる。私達は、神の中に存在し、幸いな実験台とされている。その事によって、永遠の御国の前味を喜び。主の再臨を楽しみ、待ち望むのだ。