「不動の錨により頼む」(7)

 † 点ではなく線。
 点の繋がりが線であるならば、違いを区別するのはヤバイ事かも知れない。しかし、考え方として「点」としてか「線」としてか、では大きな違いが生まれてくる。人の一生を点として見る事も出来る。
聖書も「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい」詩103・15)と、短さを、はかなさを「点」のように訴えていると思う。唯物論者には、人には永遠がないので、人生は火花の様なものと見る。物質の一部である人間も、その命も、点としか言いようがないと思える。しかし、私達は人生を、その生命を「線」と見る。人間の地上での時間は確かに短いが、それが終着だとは受け取らない。「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。・・」申命33・27)私達の人生や生命が、いかにも点の如く見られ、思われようと、永遠という住み家である神と、その腕が下にあって支え続けているのである。私達の不動の錨は、神が住み屋であること。永遠の線の如く生かされる事だ。今の人生の様々な節目を、大事な「点」として生きよう。あの事、この事の一つ一つを、大事にして全うしょう。

 † 安息日がユダヤ人を守った。
 AD70年より、ユダヤ人は祖国から諸外国に追放され、1800年間も異民族の中に住んだ。しかしユダヤ人である事を失なわなかった。この驚くべき事実は、5000年に及ぶ聖書の掟を、守り通してきた結果である。神を礼拝する安息日が、ユダヤ人を守ったと言うのである。トーラー(旧約聖書)とタルムードの教えを聞き続ける、このような習慣を「かたくなに」守り続けたのである。私達はクリスチャンであることを、頭で考える事は優しい。しかし、主日礼拝を守り、聖書の掟を守り、真理を学び続ける事は優しくはない。ユダヤ人のように「かたくな」に、掟を守り、礼拝を守る習慣を堅固にしなければ、何世代にも続くアイディンティテイ(同一性)を持つ事は出来ないだろう。「曖昧な日本人の私」(大江健三郎著)にある曖昧さを美徳としては、達し得ないと思うのである。最後に言える事は、不動の錨を創り出す賢者(私)になるには、実証したユダヤ人から学ぶべきだと思う。その、かたくなな習慣は、信仰生活を堅固にし、これからの教会の発展と宣教の不動の土台であるからだ。

 

「不動の錨により頼む」(7)