† 見守られている。
私達の一番嬉しいことは、力強い後ろ盾がある事だ。自力で生きるという生き方を推薦する考えもある。しかし人間らしく生きられるのは、自分の弱さを知り、頼れる後ろ盾に支えられて生きる事だと思う。信仰とは「信頼する」という動詞である。また、能動態である。自ら積極的に信頼する事である。その事で人間の本来が生みだされてくる。その理由は、明白である。一人の人間に全てが備わって居るわけがない。ましてや、自分の命や、身体さえどうなるか、わからないのだ。私達の後ろ盾は「天と地の全能の神である」しかも、空想の所産ではない。真実と誠実を持って、明らかに救い主となられた神である。これ以上の後ろ盾など無いのだ。確かに私達が頑張れる世界は大きいし、感覚的な満足は具体的である。ただ、それだけになっては、人としては片手落ち、もしくは失格する。人間の真の弱さを忘れるからだ。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」ヘベル5・7)これこそが真の弱さである。人間の弱さは何か?まことの人なるイエスが明確に認識されたこと「自分の死」である。これを通り過ぎて強がる人間は、どれ程の者なのか?
† 見極める力。
今日の世界は、模範を失った世界である。聖書的に言うならば「弱い立場の国々と人々」への思いやりがない強国の振る舞いの世界である。世界を成り立たせる、誠の指導者は、世界動向の500年間の歴史的真実から学び見極めないと、目先の現実に捕らわれ、強権を振るうだけになり混乱させ、滅びに向かわせるのみである。私達は4000年の聖書の歴史を持ち、その中に生き続けておられる神を持つ。現代は聖書的な模範国家を失ったが、全世界の国々に広がる地域教会が、混乱の時代に世の光りとして輝いているのである。大国に偉大な政治的指導者が生まれない限り、国は神に結びつかない。しかし、ロマ帝国は神を怖れる(畏れる)人々によって、福音に征服された。人として、小さき者でも神に生きる人ならば、群れを作り、群れが、群れを作り出して行き、世界を明るく照らしてゆくことが出来るのである。


