† 目立つことの生活。
 人間である以上は「存在」である。どのような存在なのかが大事になる。人間の関心は自己自身にあることは当然である。自分が見向きもされない存在と、思うだけで、いたたまれないことにもなる。しかし、真実はそれだけの世界ではない。ローマの哲人達と議論したパウロは「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)と、言ったように、神の中に存在する自分を見つめることである。主イエスは存在について語られる。迷い出た一匹の羊について、それを見つけたら、迷わない九十九匹より、その一匹を喜ぶ。「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」マタイ18・14)神の目には、大きく目立つ人も、目立たない小さな人も同じ価値なのである。「主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も」詩115・13)と、神の観点は何も変わっていない。にも拘わらず、クリスチャンでありながら、神の心を持って生きているわけではない。神の前に重要な弱い人、取るに足りない人としての自己感覚が無いのだ。最も偉大な人は、神の中に生き、動き存在し、小さき者である自己を自覚ている。

 † 蟻になって見てみる。
 おとぎ話のようだが、蟻の見る世界はどんなだろう?と、思った。蟻の一群のテリトリー(空間や範囲)は非常に限られている。人間が見向きもしない場所に彼らがいて、世界を築いているわけである。ソロモンも蟻に大きな関心を持った。「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める」箴言6・6-8)人間には築けない民主主義が蟻社会にある。地上で不足なく生きる知恵と勤労の目的を知っている。あの小さな生き物に、神の意図が注ぎ込まれているとしか思えない。蟻は単独で生きるようにはされていない。この事も学ぶべき所で、教会のあるべき姿を指し示している。現代人は、蟻から学ぼうとは思ってもみないが、神の指図と言葉に従うなら、大きな利益を与えられる。何事も、見ていない(解っていない)ことには、素直に主なる神のことばに従って「見る」ことだ。

「身近で見えないもの」(4)

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