† 見えないは関心ないこと?
関心があることには、目も耳も共にある。それが人間というものである。伝道とは、単に福音を伝える事ではなく、その相手の人に、如何に福音への関心をもたせるかが大切である。そのためには自らが、福音に対して篤い関心を持っている必要がある。自分が総力を挙げて、福音に取り組めば、それだけ広範囲な、豊かな関心事があるのである。こういう人は自ずから証し人であり、伝道者の資質がある人なのだ。福音に関心がそれほど無いなら、人々に関心を呼び覚ますことは難しい。しかしながら、聖書はそれで良いとはしない。私達は、主に従うように生きる事を求められている。見えないでいることは、無関心でいる事でもある。主イエスの受難と復活を知るからには、注がれている神の恵みの大きさ、深さ、広さを、新たにすべきなのである。その努力を求められている。私には関心がないのに、ただ知っている事を、口先で物語ることは、人にはわからないが、神はご存じであり、自らもわかることである。信仰が深いと思われる人は、それだけ福音に深い関心を持っている。それだから、見えなかった事が見えてくる。それだからますます、主イエスと、福音に対する関心が深まるのである。
† 乱雑に平安あり。
天に在る恩師が、ある時話された。「自分の机の上は整頓されていない。筆記用具はバラバラとしており、書類や本などが散らかっている。それが安定感を与えてくれるので、そのままだ」会長や社長の机は、どこでも美しく整っている。しかし、机上で仕事をする多くの人々は、様々に資料が寄せられ散らかるはずだ。ある韓国の教会の牧師室に案内されたが、部屋が大きく、机も大きく大変整っていた。もちろん大きな書棚にはぎっしりと本がつまっていた。それと比べると私の執務室は、何もかも置いてある物置のようだ。それが私を安定させるから不思議。机上も、棚にも、何もかも置いてある。恩師が言われたことは、私にも真実だ。整頓よりも、管理されていることの方が実際の効率なのである。「主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった」 創39・5)


