† 信仰は自らを受容する。 日本には古来より、自己を追求する思惟が存在する。無の境地とは超越的な到達点で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、織田信長に火攻めにされた快川紹喜(カイセンジョウキ)は、座禅のままに、心頭を滅却
「受容という技量」(5)
† 仕切りの無い続き。 人間は自分の体験や理解した事柄から、整理する概念を持つ。歴史に区切りがある様に、たとえ繰り返すにしても、経過したという仕切りを置くことは問題とは思われない。神が受肉され、世に来られたことは、確かに
「受容という技量」(4)
「受容という技量」(4) † 誠実という技量。 今の時代を巧みに生きる人が、賢い人「世渡り上手」な人である。主も言われる「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のよ
「受容という技量」(3)
「受容という技量」(3) 19† したい放題に対して。 主の語られた言葉「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」ルカ21・9)続く10節に
「受容という技量」(2)
「受容という技量」(2) † 分け隔てがない。 家庭の中で、親が子供達を分け隔てなく育て、愛情を注いでいるのを見るのは麗しく幸いである。一方では、親が子供に期待する余りに厳しさだけを強いる事がある。また、親が子供に優劣を
「受容という技量」(1)
「受容という技量」(1) † わが主の技量。 受難週を迎えると、主からの大いなる挑戦を受ける。十字架を背にし、よろめきながら足を踏み出されるイエス様を見る。身体はムチで打ちたたかれ、血まみれになり、頭にはイバラの冠を押し
「直視できる霊へ」(7)
「直視できる霊へ」(7) † 継続の頓挫。 義務的な継続は誰もが経験している。学校に行くのも、会社に行くのも義務だからだ。問題は自主的な継続である。自らの意志を通して継続する、様々な努力のことである。例えば、読書による研
「直視できる霊へ」(6)
「直視できる霊へ」(6) † 古きを新しきに。 私達の身の周りは、常に新しきに向かって、私達を歩ませる。電化製品も、あらゆる産業も、新しい物作りのために、知恵を絞っている。身近な加工食品も年々の新商品に溢れる。この事によ
「直視できる霊へ」(5)
「直視できる霊へ」(5) † どこに立つべきか? マルチン・ルターは「我はここに立つ。他になしあたわず。神よ我れを救い給え。アーメン。」と言った「ここ」というのは場所のことではなく「神の言葉」の事である。神の言葉に立つ以
「直視できる霊へ」(4)
「直視できる霊へ」(4) † 恥じない姿か? 世の中に生きていて、恥じることなど何もないと感じる。ただ「あなたは、主イエス様の目に適う姿か?」と、問われることに「直視」できる人は、少ない。全く、そんなことに気付くこともな