† 隠されている力。 誰もが用いる事が出来る機能と言うものがある。例えばコピー機は、子どもでも簡単に美しいカラー印刷が出来る。確かに幾らかの操作を教える必要はある。このように、便利機能は身近に溢れるようになってきた。私
「神の子供の信仰」(4)
† 恵みに立ち返る。 ある著明な方の成功の秘訣は、メモを取ることにあると言われる。あるクラブに所属したとき、そこには超エリートの大学生ばかりで、ロシヤ語、ドイツ語を原文で読むような人達。自分は翻訳物しか読んでいない。と
「神の子供の信仰」(3)
† 真の豊かさ。 すばらしい事は、どんな人にも心があって、その心に真の豊かさが満たされる事である。もし、人間のまことの豊かさが、特定の基準値を超えた人だけにある。と、されるならば、永遠に豊かさとは縁のない人々が創り出さ
「神の子供の信仰」(2)
† 父との親密さ。 私達の教会は、ビンヤードの名が付く可児福音教会である。世界にワーシップソングを、初めて広げたのがビンヤード教会である。A・Eマクグラス著「プロテスタント思想文化史」(16世紀から21世紀で)によれば
「神の子供の信仰」(1)
† 明確な区切り。 私達は初代教会時代の人間ではない。このことが幸いか、不幸かは個人の価値観が決めることだ。しかし、御子イエスを、救い主と信じる事においては同等である。初代のクリスチャンは、躓きを乗り越える勝利が伴なっ
「開かれた心と霊」(7)
「開かれた心と霊」(7) † 信仰の心の在り所。 信仰は、長い歴史において培かわれてきた、信仰は教理(教え)にあると言う事も言える。これは、おもに人間の思惟(シイ)→人間の知覚や感覚とは異なる、知的精神作用による人間の
「開かれた心と霊」(6)
「開かれた心と霊」(6) † 一心に見つめて離れない。 誰もが、自分を鏡に映すと思う。入念に鏡の自分を見続けるのではないか?「・・・完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはなら
「開かれた心と霊」(5)
「開かれた心と霊」(5) † 流されない心とは? 流されるとは、文字通り「留まれない・変わってしまう」と言うことである。心が流されれば、神への信仰も変わってしまうのである。心の自然の形は「依存」の心である。特徴は、他人
「開かれた心と霊」(4)
「開かれた心と霊」(4) † 神の中に存在する。 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)日常の生活では、心が閉ざされたような感覚の時がある。救われている現実の救いがあり、信仰は進行して
「開かれた心と霊」(3)
「開かれた心と霊」(3) † 潔い良心を持つ。 私達は、神の御前に生きている。ダビデが「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は


