† 成長を見守る。
親の立場になると、子供の成長を見守る立場に立たせられる。子供の年代に即した見方をし見守るわけである。おおかたは強制するのではなく、本人の自主性を重んじる見方をする。親はいつしか子供の生まれ持つ能力を知るようになり、それにふさわしい指導をしていく。今は良い時代である。学びたい意欲さえあれば、受け容れてくれる学び舎が備えられている。極度な競争をしなくても、自分のめざす道が開かれる。さて、教会にあって私は最高齢者のようである。同じように、多くを見守ることの多い立場にある。多くの方々が、聖書の信仰を持ち勇敢に歩まれる姿に目を注ぐ。素晴らしい眺めである。この教会の、信仰の先陣を走ってきた者としての、見守り方でもある。キリストの身体として、愛の交わりを土台とした信仰は、健全な歩みをし、成長して行く。時代の流れとしての個人主義的信仰は、聖霊の働きと、導きから遠のいて行く。これを見守るだけでは、治って行かない。御言葉を語る礼拝を通して鋭く、聖書的な信仰姿勢を明らかに示すのだ。そして見守る。頑なに自分を生きるのか、それとも神に降伏するのか。それを見守るのが務めである。教会の全人が、主イエスの裁きに耐えうる幸いな信仰を持ち、成長を遂げられることを祈る。
† 主の後ろに立つ者となる。
うしろに立つ、まことの指導者は「前面」に目立たない。これはどの世界にも見られることである。今の時代は「前面に出る」ことをアピールする時代である。キリストの教会は人間のパフォーマンスで決するような代物ではない。教会は世に見えないキリストを現す。常に、教会には、見えざる生けるキリストが居られ、私達の信仰を実現させる聖霊のお働きが成されている。三位一体の神こそが、教会の指導者である。私達が如何に有能な働き手であろうと、前面に立たれるのは、主なる神である。これを踏まえない者は、まことの神の人ではない。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」1コリント4・7)まことに主を誉め称え、主を崇めて、心から互いに仕える者になりたいと思う。


