† あわてふためく。
良くあることで、血の気が引くような思いをする時とは?それは、ここに在ると思い込んでいたのに、見当たらない時だ。どこなのだ?疑心暗鬼に陥る。自身に疑いを抱きつつ、様々に思い巡らす。あそこか、ここかと探し回るのである。全く見つからないので、ますます落ち込むのである。ここまで来ると、ようやく始めに戻って冷静になる。あり得ないと思いながら、初めの場所をゆっくりと調べ直すのである。なんと、調べ尽くした所から「思わぬ形で」そこに見つける。自らに呆れかえる、とはこの事である。重要な書類であったり、物品だったりする時のことだ。しかし、本当の問題は、人生の問題である。身近には幸せや、問題解決の答はないと、遠くを眺め、どこか遠くを探し回ることである。「汝遠くに出でんとするか、まことに善きことは身近にあり」(ゲーテの格言)は、20代前半ころ心に刻まれた。後半には「幸福をとらえる術を知れ、幸福は常に手近にあれば」 とある。身近にあるものに戻るとはなにか「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです」テトス3・7)最も身近に与えられた「恵み」に帰れば、実際的な幸いと、揺るぎない安定を持てるのである。とこしえまでも。ハレルヤ!
† 尊い贈り物。
今は天に住んでいる母からの贈り物は? 第1に、主の十字架の意味を知って赦され、人を赦す事が出来た恵みだ。第2は、献金への忠実さだった。主のため、教会のために生きてくれたことである。私の部屋には、ルーベンスの「十字架のキリスト」が掛けられている。これが、母からの贈り物だ。私の人生で最大の出来事は、この十字架のキリスト以外にあるのか?と、問われると「無い」が正直な答である。執務室の片隅に掛けられている「十字架のキリスト」は、片時も忘れてはいけない最大の恵みなのである。思えば、眼中にあっても、見えていない絵となっている。今、それを思い起こして、最も身近にある私の宝とし大切に毎日ながめたい。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2)私も十字架を忍び、神の栄光の中を歩み続けたい、それ以上の生き方はないからである。


