† 祈りの必要とは何か?
何を今さら、祈りの必要?とは、私達クリスチャンは解っているようで、身になっていないことが多い。祈らなくても、クリスチャンには違いない。他の宗教(イスラム)では、決められた時間に、日に5度、絶対に祈ることが強要される。意図的に怠ることは、礼拝を怠ることで罪とされる。更に、この行為は来世において神の裁きをうける。と、されている。私達は自分の力量で何事も出来るならば、神に頼る必要はない。神の助けや導きなど必要ない。要するに「神に祈る」ことなく、生きる事が出来るのだ。ほとんどのクリスチャンは、安定社会の中で満ち足りており、衣食住のために祈らない。野の花、空の鳥を見て「神の国とその義」マタイ6・33)を求めて祈る事もないのだ。しかし、神の御業(死病からの癒し、悪と罪からの開放、神の力ある宣教)を願うならば、神のみに頼る以外に無い。祈りとは「神に依存している人」の絶対条件となる。それが無い人は「祈らない」のである。従って、特別な祈りをしなくても、自分も、家族も、信仰も、教会も、うまく運ばれて行くと、心の奥底で思っているのである。しかし、誰であっても、神のために生きよう。と、志を与えられた人は、神に祈ることは呼吸のように自然になる。クリスチャンは、神のためにあるのが正解なのだ。
† 神の思いのままに。
よく言われることで、何回も聞いていることは「通り良き管」になれ。と言うことである。聖歌578番「主の愛の汝がうちに」の中で「み恵みを取り次ぐに、通り良き管として」という折り返しの歌詞が、身に染みこんでいる。主イエスに、用いられたいという、切なる願いが生みだす祈りである。そのためには「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩51・17)である事に違いはない。しかし、更に「虫けら」イザヤ41・14)「うじ虫」ヨブ25・6)へと具体的に自らを見る事を示された。まことにアーメンである。そこに備えておれば、何を言われても、どのように評価されても「当然だ」と、痛みなく受け取れるに違いないからである。昼間でも、深い井戸の暗闇の底からは、空に星々が見えるという。これは魂においても同じだ。この事実は霊的にも物理的にも事実なのだ。


