† まず考えられること。
この所、多くの自動車メーカーから新車の発売がされている。何かが新しいので「新車」なのだろう。やはり関心はエンジンのことになる。最近はEV(電気自動車)もあるが、ガソリンエンジンに私は興味を持つ。空気とガソリンが混合圧縮され、シリンダー内で点火され爆発する。その力でクランクが回転し、車輪を動かす。この原理をいかに効率よく、ガソリンを少なくして出力に変えられるか。この技術が新車に現わされる。高効率エンジンとして注目されているのが日産の「スタック燃焼エンジン」で、熱効率が抜群に良い。独特の設計思想が生みだしたものである。私達も神の器として、いかに神の恵みを出力できるかを問われている。私達は神を宿すだけではなく「・・・それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」2コリ4・7)私達は、神に創られた器(エンジン)なのである。私自身が、神のために、ふさわしいエンジンとして備えるならば、使徒パウロの言うように「測り知れない力」が神の栄光として、様々に現されるに違いないのである。信仰を持て、とか神を畏れよ、とかの全ては神の宮(器)として、神が現れやすい人格になるためである。私も神の恵みを出力出来るように備えたいと思う。
† 生命が宿るまで。
素人と玄人の違いは何か?玄人には実質があり、業や作品に力量や生命が宿っている。素人は玄人になる途上にある人々の事である。歌舞伎や日本舞踊でも、物作りの職人の世界でも、玄人(名人)がいる。どの世界に在っても、達人を見倣いながら、真似をしながら前に進むのである。演技に生命が宿るまで、技術に生命が宿るまで、倣いながら備え続けるのである。備えるとは、一を備えたらニを、次は三を、と達成に向かうのである。信仰も同じように、成長し達成の域に到達して行く楽しみがある。それは「十字架を負って」主イエスに従う事でもある。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください」ビリビ2・12)神を畏れる信仰は、この上なく有益であり、楽しみを増し加えられる人生であるのだ。


