† 不思議な引き継ぎ。
日進月歩の今日では、古いものは、どんどん置き去りにされてゆく感がある。しかしながら、新しいものが、古いものを引き継いで行く事を不思議に思った。全くの新しいOS、Window25H2に、古いソフトウエアープログラムのインストールは受け付けない。対応していません。と表示される。互換性インストールも駄目である。それなのに、面白い事は、古いソフトウエアーでも、新しいOSに「引き継ぐ」ことに設定すると、最新のOSが認識してくれるのである。直接のインストールでは「古くて駄目ですよ」と言うのに、前、前から引き継いだ場合には問題なく働くのだ。教会でも信仰の継承と言うことが叫ばれるが、問題が起こる。今まで築かれた価値が「古い」とされる時には、継承は途絶える。しかし良識ある霊的思考があるならば、継承しつつ、更に新しい技量を増し加えて、継承の幅をさらに大きく出来るのである。考えて見ればわかることだが、先人の功績なくして、今の私があるのか?私の独自であるようなものが、どれ程あるのか?「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」伝道1・9)私達の頭脳や、霊性は日々に新たにされ、複雑さから単純化され、益々鋭利にされてゆくのである。
† 主の慈しみと憐れみ。
神の子として、最大級の喜びと感謝は「神が私を憐れんでくださった」ということである。「主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」出エジプト33・19)主なる神が、恵もうとされ、あわれもうとされた。それがなければ、私はない。それが神の子としての、わたしの信仰である。わたし自身には「選ばれる」原因がない事を百も承知している。神の子供の幸せは、父が注がれる、恵みと憐れみである。それ以外に何があるだろう?この最高の神の慈しみが、取り去られることがないように、わたしは地上の生活を生きるているのである。主なる神のこれほどの誠実さに、わたしはどれ程に答えれば良いのだろう。ただ、主イエスによって、多くを補われながら歩み続けられているのである。


