† 真の豊かさ。
 すばらしい事は、どんな人にも心があって、その心に真の豊かさが満たされる事である。もし、人間のまことの豊かさが、特定の基準値を超えた人だけにある。と、されるならば、永遠に豊かさとは縁のない人々が創り出されてしまうだろう。人間は今や、豊かさを、経済的、物質的な豊かさを条件にしている。その割合が強い人ほど「心の豊かさ」を失っているようである。「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」箴言17・1)心の平和が豊かさの象徴なのである。幾ら物質的に豊穣(ホウジョウ)であっても、争い、不平不満のある家の者には「真の豊かさ」はないのである。世界には経済的、物質的な不均衡が明白であって、21世紀になっても改善の道筋は立たない。世界には極度の貧困にある人が7億人。約13億人が教育・健康・生活水準の面で深刻な剥奪(ハクダツ)を受けている貧困者だ。この方々の、まことの豊かさが必要ではないか?それは「心」に、届けられる神の祝福である。「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」マタイ11・5)真の豊かさが届くように祈ろう。

 † 神の御業を喜ぶ。
 我が家と教会を結ぶ道は、片側が田んぼであり、その土堤には雑草が生えている。その中の一輪の花に目が留まった「ヒナギク」で、野菊の一種だと知った。田起こしで失われるのを惜しみ、根こそぎ取って執務室の植木鉢に植えた。見れば見るほど、可憐さに感動する。「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」ルカ12・27(口語訳)誰も目を留めない野の花に、神の創造の行き届いた優美さが溢れている。信仰の心と、目で見つめる神の作品は、私達を驚かせ、神を崇めさせるためにある。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる・・・」ロマ1・20)神の子供として、神が創られた作品に驚き、子供らしく「父と共に喜び、語り合い」ハレルヤ!と叫びたいのである。 

「神の子供の信仰」(3)

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