† 明確な区切り。
私達は初代教会時代の人間ではない。このことが幸いか、不幸かは個人の価値観が決めることだ。しかし、御子イエスを、救い主と信じる事においては同等である。初代のクリスチャンは、躓きを乗り越える勝利が伴なった。コミュニティ(社会組織としての地域の共同体)からの追放(現代的には、市町村の与える恩恵を剥奪される)も、永遠の生命の救いの尊い価値は、世に代えがたい。と言う「区切り」を与えた。現代の日本は「信仰の自由」を中心とした民主国家として、迫害を加えることはない。現代は信仰しやすいから幸いとも思える。しかし信仰の内容は、はなはだ軽いのではないか?神である主イエスのために、本当に世を捨てるほどの「区切り」をしたのか?と、問われるのが現代の私達なのである。主イエスは群集と弟子に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マルコ8・34)と言われた。明確な「区切り」を持て、と言われたのである。その「区切り」によって、神から生まれた「神の子供」は、神に生きる使命と喜びを持てるからである。失われる地上に心をおかず、永遠の栄光とキリストの資産を相続する。(ロマ8・17)驚くべき次元こそが、人間の真実だからである。
† 神の子供の権威。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」ヨハネ1・12)日本語で「特権」と約されている原文は(ギ)exousia[エクソウシア]は「権威」を意味している。これは、御子イエス様が現された、聖なる資質のこと「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」2ペテロ1・3)次節には「神の性質に預かる者となる」という特権である。主イエスの信仰を信じて、主と同じになり「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」2ペテロ1・8)私達が持っている驚くべき権威である。 自分の特権に気づかず、用いないほど悲しいことはない。