† 私にあるもの。
主イエスが地上に来られたことにより、律法に変わり、神の慈しみと憐れみが、注がれるようになった。主イエスの時代から、今日も同じく変わることはない。これが驚くべき恵みの本質だと思う。私は何ものも神のものを「持っていない」のである。私に与えられて「あるもの」であり、私のものではない。私が、何ものかを通して買い取ったものではない。例えば、優秀さとか、優れてあるものがあるとか、等は、神の恵み(慈しみと憐れみ)とは全く関係がない。私は神においてのみ「在る者」にすぎない。このことが「恵みの至る所」なのである。そこから生みだされるものは何か?真の人間らしさである。役職としては牧師をしているが、牧師以前の、恵みを与えられた者として生きているのである。うがった見方をすれば、それがなくて牧師は成り立たないと言う事である。そのために選ばれた神の奥義に感動する。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)そのために世に生まれ、その目的を100バーセント、主イエスにおいて確認出来る。恵みとは、与えられて有る、神の憐れみと慈しみなのである。
† 恵みを現す信仰。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」エペソ2・8)ここでも、信仰は私達から出てはいない。神の賜物とある。信仰の完全性は「キリストの信仰」である。このキリストの信仰によって、私達は救われたのだ。「・・・・わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた「神の御子を信じる信仰」によって、生きているのである」 ガラテヤ2・20)「神の御子を信じる信仰」の原文は「神の御子の信仰に在りて生きる」即ち「キリストの信仰の中に生きる」と言うことである。使徒パウロと同じ信仰の内容を私は信じる。受肉から、十字架と復活に至るまで、神への信頼を貫かれた、主イエスの信仰が私達への完全な賜物である。故に、地上に生きる私達は、主イエスの信仰が最大の恵みなのだ。主イエスの信仰の中に生きて、神の恵みを実際に現す信仰である。