† 戸が閉じられる。
 今まで、自由に出入りができたのに、ある時から戸が閉じられてしまう。これは「ノアの箱船」で起きた。次は、突然のことが起きた時、備えているべきことを忘れ、慌てふためいている間に、戸が閉じられてしまった。マタイ25章にある「おろかな乙女達」のことである。何よりも、神から見捨てられる結末が恐ろしい。神の意図のもとに、戸が閉じられるのである。ノアの箱船は巨大な戸であった「主は彼のうしろ戸を閉ざされた」創7・16)ノアの家族以外の全ての人々は、箱船に押し寄せたと思われるが、全て滅んだのである。神の言葉を聞ける環境にいながら、一向に生き方を変えない人々の姿かもしれない。五人の乙女達は、主人に知られていた者達であったので「ご主人様、ご主人様、開けてください」と懇願した「まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません」マタイ25・12)この恐ろしさから、何が何でも「神がおられる、戸の内側に入る」ことが、限りなく重要な日常の行為でなければならないと教えられる。滅亡に追いやられてしまった人々の原因は「自己の判断」に重きを置いていたからである。私達は「肉」を纏っている以上、純潔・純粋な精神(心)を持ち続けてはいない。世の力・世の羨望・世の快楽と魅力に引き出されている。そうこうしている間に、戸が閉じられるのである。神は恐るべきかな。

 † 主に喜ばれるように。 
 評判を得たいという思いは誰にもある。そのために行動する時は、様々に自己宣伝(アピール)する隠れた自分を見るだろう。そうでなければならない芸能人や政治家はいる。しかし、聖書には「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」2コタント10・18)そのような魂の持ち主が大勢いる教会は力強い、まことの教会である。聖書にある「善」は、人からは隠れた愛の行為である。そういう行為は、人には気付かれず、表にも現れない。言葉においてもキリストの心を持って語る人々である。神を喜ばせるために人生を持てる人は、豊かな成熟にむかっている人である。人々に映る自分を考えて動くのではなく、神に喜ばれるために、全てを堪え忍んで、「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた(る)」使徒2・25)人である。

「これしかない定め」(5)

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