† 何でもありの時代。
 私達の毎日には、常に二つのことが起こっている。私達には、なんでも出来る自由な世界が広がっている。同時に、私には「これ以外」は関係のない世界がある。「定め」という規範を、嫌がる人が、大勢いる。実は、社会生活をする上では、多くの規範を科せられて生きているからである。人間としてのルールや、常識の上での規範が、学生にも社会人にも求められているのである。その上で自由な世界があるべきなのである。しかし人間はロボットではない「縛られたくない」自由をあこがれるのである。なぜなら、世の中には歓楽と欲望の華やかな世界が不夜城のように現存するからである。私達クリスチャンは、あえて、人間中心の自由主義は、滅びの道であると認識している。神はモーセに「滅びない誡め」を、十の言葉にして示された。「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた」申命5・22)誡めは人間を窮屈にするためではなく、神の御心の慈しみと憐れみの尊さに結びつけるものだった。神を畏れて愛さなかった人々は、十戒は窮屈にするもの、不自由をもたらすものになり、自らに滅びを招いてしまったのである。

 † 最たる宣言に生きる。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」使徒4・12)私は聖書を読み出して、最大の根拠とした御言葉は「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」1テモテ2・5)だった。人生という、世界観の中心は、唯一の神に帰結する。そして、人類の救い主は、唯一。イエス・キリスト以外にはない。「唯一の神」「唯一の救い主」どのような人間がいるにしても「これしかない定め」の中にいるのである。これを究めて(祈り求めて)いよいよ安定した人生を生きるか。教えられた知識として信じて生きるか。それぞれは、その人自身の責任として、主なる神は委せている。「求める者は得」「探すものは見いだす」世界に、私達は生かされているのである。

「これしかない定め」(1)

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