† フラットの状態に。
自分を「平ら」にするとは、どう言うことか?自動車で言えば、ギヤーをニュ-トラルの状態にすることだ。私達人間は、自分を何者か意識して生きている。特に人に対して、その人に合わせて自分を演出している。その意味で、主イエスを見ると頑ななパリサイ人に対しては、神としての厳しい口調が聞かれる。(例)マタイ23章)おもに、神の御心をあざ笑うような人々に対しては、厳しい対応をされた。神の怒りが向けられたのである。さて、フラットとは「凹凸がない」ことである。「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである」ロマ2・11)主イエス様はどのような人の前にも「慈しみと憐れみ」を持って接しられた。私達も、隣人に対して、同じように主イエスに準じて生きるのがクリスチャンである。では神の前に、私はどの様な自分を現すべきか?ありのままか?もっと何かがあるのか?確かに聖書には、主を感動させた、あり方が記される。「そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」マタイ8・10)主はこれを聞いて非常に関心された。謙った信仰を示し、神を畏れる心だった。これを「フラットな心」として備えたいと思う。
† 新しいものは古きにある。
「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる」伝道3・15) 人間には新しく思えても、神の中では、すでに行われた普遍である。新しいことを学びたいならば、過去を学ぶ事である。人間の魂に現された、神の出来事の歴史ほど興味深いものはない。過去に見られた祝福、神の驚くべき奇跡の御業は、今の私達への「新しさ」であると気づくのである。リバイバルとは過去にあった神のお働きに、誘発され祈ることである。神の原理は、昔の出来事は、今に現れる。と言うことである。ジョン・ウインバーは、過去のリバイバルを研究し結論とした事は、リバイバルには奇跡(しるしと不思議)が必ず伴う。と言う確信だった。その確信を信じ続け、なお信じ続けて「しるしと不思議の伴う伝道を確立し、世界に聖霊の刷新をもたらしたのである。


