「皮袋と中味」(5)
† アルファでありオメガである。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」黙22・13)私達の救い主イエス・キリストは、時空を超越した神として存在されている。皮袋としての被造世界は、刻々と進む秒針の時間に制約されているのが実感である。しかし、主なる神にあっては「始めは終わり」と同じなのである。これは、聖書だけの意味不明の言葉ではない。物理学者アルベルト・アインシュタインは、私たちが知覚し経験する時間さえも、被造界の速度や重力場によって変容するという発見をした。それで、聖書の証言が物理的な事実であることが見出された。私達を含む被造物を「皮袋」として見るならば、私達の時間的な予測に真実があるのではなく「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」2ペテロ3・10)に、こそ真実がある。私達クリスチャンは「狭い門」である真理を生き抜いている。毎日を最後の日であるかのように生きつつ、信仰と責任をもって、あたかも偉大な未来が待っているかのように生きる道である。この新しい年を「初めであり、終わりである」全能の主イエスに、応答する人は幸いである。
† 切り離せない内と外。
レストランや食堂に入って、水とおしぼりが無料で出てくるのは日本だけだ。と聞いて驚いた。外国へ行ったら、すべて有料だと心得たら間違いない。他国では、水道の水が安全とは限らない事もある。食事が飲み物と切り離せないように「心と身体」も切り離せない。新たに忠告されたのは「水分を取れ」とのことだ。私が健全な知識と意志を持って実行する事が「身体」を健やかに保つ事になる。神の宮(皮袋)である私の健やかさは「全くきよい良心」使徒23・1)と「健全な教え」テトス1・9)と「健全なことば」2テモテ1・13)に、絶えず留意し「信仰を吟味する」2コリント13・5)ことに尽きる。それを曖昧にすれば、たちまち、信仰は弛緩(チカン)してしまう。要するに、緊張を失ってしまうのだ。信仰とは「目を覚ましている」1コリ16・13)ことを継続していることに尽きるのだ。主イエスは、その人に啓示と悟りを与えられるのである。


