† 新しい私の確認。
 洗礼を受け神の子供として、新しく生まれた人々が起こされていることは大きな喜びである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5・17)キリストの中にあることを、揺るぎなく確信させてくれるのが洗礼を受けることだ。「古いもの」とは、自分を盲目にしていた、頑(カタク)なな「罪」である。しかし、罪は十字架で消し去られ、その人は、新しい者へ造られ続ける「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」ヨハネ14・6)聖書(神の言葉)の約束へ私達は確実に結ばれて行く。主イエスの力ある生涯の実績が私達の生活の中で、実を結ばせてくださる。新しく造られた人には成長への前進のみがある。信仰は理論や、理想で終わるものではない。新しさとは、私達がキリストの御姿に変えられて行く事。その人には「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから」イザヤ41・13)と、全能の神の右の手に「堅く握られて」その人の「中味」が育てられる。

 † 皮袋の汚れを落とす。
 新年を迎えて間もない、年末には大掃除が恒例であった。今は、その音が聞こえない。かつては畳をはたく音、すす払いをする音、賑やかな家族の声があった。時代は変わったが、家は立ち歩くだけでホコリが舞い、ゴミが生じる。我が家の全ての床を雑巾掛けした。驚いたことに、何回もバケツの水を入れ換えた。それほどに床は汚れている。スリッパの裏も同じである。思ったことは、聖霊の宮(皮袋)としての私が、ほこりを溜め、汚れている所はどこか?主の戒めに従っていない所に違いない。もしかするとゴミがこびりついて劣化し、穴が空きかけている?それはあり得ることだ。もっと恐ろしいことがある。悪魔がそこに宿る事である。「・・・自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」 ルカ11・26)霊的な皮袋(私)は、神への従順を通して聖くなり、悪霊が寄りつけない事だ。

「皮袋と中味」(4)

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