† 隠されている力。
 誰もが用いる事が出来る機能と言うものがある。例えばコピー機は、子どもでも簡単に美しいカラー印刷が出来る。確かに幾らかの操作を教える必要はある。このように、便利機能は身近に溢れるようになってきた。私達は、主なる神の全能を信じて生きている。問題は、その全能の神のお働きを、どれ程に私の人生に機能させているか?という事である。例えば、神に報いてもらえるためには、方法が教えられている。「・・・戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6・6)私が、この事を報われる「機能」として用いなければ「父の報い」は無い。主なる神が提示される勧めに、従わないならば、神の全能の力は、私の内実の能力とは成り得ないのである。神の報いを受ける条件は「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません・・・」ヘブル11・6)なので、重要性は信仰にある。そのためには「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい・・・」ヘブル12・2)要するに、キリストの信仰(信じて従う)を、私の信仰の内容にして行くことだ。御言葉が「神の機能」となって、祝福となり力となる。私達の人生の中に、神の真実の花を咲かせるのである。

 † 挑戦は必ず報われる。
 私達の教会では「信仰はリスク(危険)を伴う」がある。思い通りに行かないことを言う。これは、おもに「信じて祈ったり」「癒されるためにミニストリー」をする時に、期待した通りには成らないことを覚悟しろ。と言う意味である。しかし、重要な真実が生まれている。祈りが積まれ、愛の現実が生まれていることだ。温かい愛のスキンシップが、どれ程に親密な関係を生みだしている事だろう。ビンヤード教会は、リスクを恐れない。主イエスのお働きを現実として、信じ行なうののである。生きた教会は、生きた信仰が創り出すのである。聖霊は私達に伴われているからである。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けずまた、病人に手を置けば病人はいやされます」マルコ16・17-18)

「神の子供の信仰」(5)

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