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  • 「恵みの至る所」(5)
    † 枯れることにもなる。 恵みの所在は神にある。私達の生まれつきの所与ではなく、主なる神から与えられているものである。主イエスを信じて「神の恵み」が与えられたのである。大切な事は、与えられた恵みは、私の中に守り続けるもの
  • 「恵みの至る所」(4)
    「恵みの至る所」(4) † 恵みの体感力。 「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです」1コリ2・12)私達にとって、
  • 「恵みの至る所」(3)
    「恵みの至る所」(3) † 一人一人に100バーセント。 ある人は限りない努力をして、必死に神を追い求める。所が、ある人は異なるスタイルを持つ。主を知るための切実さに、それほどではない信仰生活を持ち続けるのである。主イエ
  • 「恵みの至る所」(2)
    「恵みの至る所」(2) † 今は恵みの時。 「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え:救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」2コリント6・2)主なる神が預言者イザヤに語られた言葉
  • 「恵みの至る所」(1)
    「恵みの至る所」(1) † 神の御心の恵み。 人間に対する神様の御思いは、聖書を通してお示しになっている。人間は「過去、現在、未来」を有する霊的な被造物である。それだからこそ、神様の御心による福音の恵みは、過去の赦しのみ
  • 「受容という技量」(7)
    † 進歩するための技量。 自らの進歩は自分にしかわからない。明らかに努力による進歩であり、主の恵み深さによる進歩である。なにが受容されているのか?それは、自らの足りなさである。自らの不十分さを、正直に受容出来ることである
  • 「受容という技量」(6)
    † 信仰は自らを受容する。 日本には古来より、自己を追求する思惟が存在する。無の境地とは超越的な到達点で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、織田信長に火攻めにされた快川紹喜(カイセンジョウキ)は、座禅のままに、心頭を滅却
  • 「受容という技量」(5)
    † 仕切りの無い続き。 人間は自分の体験や理解した事柄から、整理する概念を持つ。歴史に区切りがある様に、たとえ繰り返すにしても、経過したという仕切りを置くことは問題とは思われない。神が受肉され、世に来られたことは、確かに
  • 「受容という技量」(4)
    「受容という技量」(4) † 誠実という技量。 今の時代を巧みに生きる人が、賢い人「世渡り上手」な人である。主も言われる「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のよ
  • 「受容という技量」(3)
    「受容という技量」(3) 19† したい放題に対して。 主の語られた言葉「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」ルカ21・9)続く10節に
  • 「受容という技量」(2)
    「受容という技量」(2) † 分け隔てがない。 家庭の中で、親が子供達を分け隔てなく育て、愛情を注いでいるのを見るのは麗しく幸いである。一方では、親が子供に期待する余りに厳しさだけを強いる事がある。また、親が子供に優劣を
  • 「受容という技量」(1)
    「受容という技量」(1) † わが主の技量。 受難週を迎えると、主からの大いなる挑戦を受ける。十字架を背にし、よろめきながら足を踏み出されるイエス様を見る。身体はムチで打ちたたかれ、血まみれになり、頭にはイバラの冠を押し
  • 「直視できる霊へ」(7)
    「直視できる霊へ」(7) † 継続の頓挫。 義務的な継続は誰もが経験している。学校に行くのも、会社に行くのも義務だからだ。問題は自主的な継続である。自らの意志を通して継続する、様々な努力のことである。例えば、読書による研
  • 「直視できる霊へ」(6)
    「直視できる霊へ」(6) † 古きを新しきに。 私達の身の周りは、常に新しきに向かって、私達を歩ませる。電化製品も、あらゆる産業も、新しい物作りのために、知恵を絞っている。身近な加工食品も年々の新商品に溢れる。この事によ
  • 「直視できる霊へ」(5)
    「直視できる霊へ」(5) † どこに立つべきか? マルチン・ルターは「我はここに立つ。他になしあたわず。神よ我れを救い給え。アーメン。」と言った「ここ」というのは場所のことではなく「神の言葉」の事である。神の言葉に立つ以
  • 「直視できる霊へ」(4)
    「直視できる霊へ」(4) † 恥じない姿か? 世の中に生きていて、恥じることなど何もないと感じる。ただ「あなたは、主イエス様の目に適う姿か?」と、問われることに「直視」できる人は、少ない。全く、そんなことに気付くこともな
  • 「直視できる霊へ」(3)
    「直視できる霊へ」(3) † 添え物である。 主菜(メインディシュ)に沿えるもの。そういった付属する役目が、主イエス様との関係で意識される。多くの立派な神の器が、謙遜にへりくだっておられるのには驚く。そのような身分を喜
  • 「直視できる霊へ」(2)
    「直視できる霊へ」(2) † 勘違いの結果。 これは自分のことである。ある仕事上の指示を受けて、成し終えたが、勘違い(理解の間違い)で、やり直しを余儀なくされた。聞き取ることの能力不足であり、性格的な欠陥でもある。これが
  • 「直視できる霊へ」(1)
    「直視できる霊へ」(1) † 霊的直視を不可能にするもの。  人間には直視できないものがある。まず、身近な太陽である。キリスト以前の世界では、ヤーウェー(神)を見る者は、すぐに死なねばならなかった。このような物理的な「目
  • 「生ける水を流す」(7)
    「生ける水を流す」(7) † 川となって流れでる。 川とは「河」を意味している。大きな川のことである。私達の想像を超えた流れのことである。心の奥底から(腹から)涌きでるのである。一つ、体験した事は「驚くべき神の御業」とし
  • 「生ける水を流す」(6)
    「生ける水を流す」(6) † 教会の存在理由。 教会は誰のためにあるのか?このことに対しての答は幾つかある。地上に、教会があるのだから、世(人々)のためである。大きな理由の一つである。しかしながら、最重要なことは、教会は
  • 「生ける水を流す」(5)
    「生ける水を流す」(5) † 御言葉の戸が開く。 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩119・130)文語で読んだときには感動した。「・・・愚かなる者をさと(悟)からしむ」まさに、私
  • 「生ける水を流す」(4)
    「生ける水を流す」(4) † 与えられて流す。 今、あるものは与えられるが、今、無いものは与えられない。私達は長年の信仰生活をしていても、常に霊的な全てを、備えているわけではない。気乗りがしないまま、御言葉が思い浮かばず
  • 「生ける水を流す」(3)
    「生ける水を流す」(3) † 生ける水の本質。 「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」黙示22・1-2)この水晶のような命の水は、御神と
  • 「生ける水を流す」(2)
    「生ける水を流す」(2) † 湧いてくる水。 山の中腹くらいの谷に、大きな岩があった。その岩の下から水が湧いていた。子供時代に「ここからか!」と感動した瞬間だった。この涌きでていた水は、裾野の方ではザワザワと音を立てて流
  • 「生ける水を流す」(1)
    「生ける水を流す」(1) † 信じる者に起こる。 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」ヨハネ7・38)クリスチャン生活の特徴は「腹から」即ち、私という中心から、生
  • 「私でしかない」(7)
    「私でしかない」(7) † 十字架に共に死す。 原語に忠実な永井訳では「我はキリストと同(トモ)に十字架につけられたり。されど、我は生く、尚(な)ほ我にあらず、キリスト我にありて生き給ふなり。されどわれ今肉にありて生くる
  • 「私でしかない」(6)
    「私でしかない」(6) † クリスマスの私。 主イエスの降誕を迎える。クリスマスは人類のお祝いだが「クリスト・マス(救い主を礼拝する)」ことである。これは儀式ではない。「私の主。私の神」ヨハネ20・28)として、私がひれ
  • 「私でしかない」(5)
    「私でしかない」(5) † 主イエスを慕う者。 人には、誰にも知られない秘められた思い出が在るに違いない。唯一のかけがえのない美しい思い出ともいえる。地上に生きる私達は、様々な体験を通して「自分を認識する」赤児の時、まず
  • 「私でしかない」(4)
    「私でしかいない」(4) † 私自身を受け入れる。 セネカは「人生の短さについて」の中で、かく言う「おまえがそんなことをしたのは、他者と共にありたかったがゆえではなく、自己と共にあることに耐えられなかったがゆえなのだ」と
  • 「私でしかない」(3)
    「私でしかない」(3) † 肯定的な私である。 私でしかない。という内容は、肯定的な私のことである。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」マタイ22・14)招待されたのは、主イエスであるが、選ばれるのも主イエ
  • 「私でしかない」(2)
    「私でしかない」(2) † 神の目の中に在る。  何を持って自分の存在が在るのか?求められた優秀さにおいてか。世に在って評価を得る事によってか。それ以外にも多くの候補があるに違いない。立場や分野においても、自分たらしめる
  • 「私でしかない」(1)
    「私でしかない」(1) † 最も小さな単位。 百人の中の一人とみるか、世界人口82億人のうちの一人とみるかで単位は大きく変わってくる。何の意味もない比較としか思えないが、はっきり解ることは、「私は私として生きている」とい
  • 「傾向性への警戒」(7)
    † 嫌われること。 誰でも、あえて嫌われることを望まない。また、人がやらなくても、自分は、やらなければならない事がある。自らに信念があるなら、このような問題はいつも起こってくる。パウロが教える「正しい良心と偽りのない信仰
  • 「傾向性への警戒」(6)
    「傾向性への警戒」(6) † 理解と行動のギャップ。 人間の個性は10人おれば、10人別々で、それぞれ尊重されるべきである。個性も変化してゆくものでブレークスルーして成長する。そのように人間が成長した果てにも個性がある。
  • 「傾向性への警戒」(5)
    「傾向性への警戒」(5) † 面子を保つ。 誰もが自己尊厳性を持っている。それを卑しめたり、軽くあしらったりすることは品位のない人のする事である。「隣人を愛せよ」ということは、隣人を尊敬せよ、と言うことに繋がっている。言
  • 「傾向性への警戒」(4)
    「傾向性への警戒」(4) † 武士的な気風。 日本は言うまでもなく欧米化社会である。私達クリスチャンには感謝な体制である。人権が何よりも重んじられることを求める社会であるからだ。一方、社会主義的な平等理念がないので、貧富
  • 「傾向性への警戒」(3)
    「傾向性への警戒」(3) † 知り尽くされている。 最も安心なのは、主なる神が私達を知り尽くしておられる事である。「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます」詩139・2)安心し
  • 「傾向性への警戒」(2)
    「傾向性への警戒」(2) † ただ健全に向かう。 主イエスを信じたら、何が始まるのか?喜びと、真理の自由の生活が始まる。主イエスを信じて、初めて気づいたことは「感謝」することが、生活の中に生まれたことだった。信仰の初めは
  • 「傾向性への警戒」(1)
    「傾向性への警戒」(1) † 自らの傾向を知る。 高齢者運転免許講習が、先日の午前、K自動車学校で行われた。高齢者の運転には傾向性があり、それが危険を伴うからだ。高齢者は運動神経が衰え、視界も狭く、夜には視力が届かない。
  • 「光りの子供らしく」(7)
    「光りの子供らしく」(7) † 最も高きところへ。 無理難題のことではなく、至極当然な、光りの子供の高嶺のことである。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6
  • 「光りの子供らしく」(6)
    「光りの子供らしく」(6) † 御足の跡を歩む恵み。 私達は「光りの子供」として自認し、生きる事を求められている。主イエスのように(歩まれたように)歩む事を願っているから、光りの子供「らしい」のである。主イエスの足跡は消
  • 「光りの子供らしく」(5)
    「光りの子供らしく」(5) † 恐れない訓練。  「自分自身を知る」と言うことは簡単ではない。幼い時にはほとんど自分の事がわからないままだ。少年となり、ようやく友達と違う自分について、気づき始める。それも、人によっては、
  • 「光りの子供らしく」(4)
    「光りの子供らしく」(4) † 日常の必須。 何かに係わる事とは、どう言うことだろう?それが喜びである。または、面倒なこと。に分かれる。先日も、ある方が3週間、犬をあずかったそうである。娘の愛犬だったのでやむを得ない。こ
  • 「光りの子供らしく」(3)
    「光りの子供らしく」(3) † まかせる勇気。 野球の監督が、経験の浅い新人を起用する時、ベテランの選手がいることを思えば、大きな賭でもある。エラーをしたり、チャンスにヒットを打てず、チームが負けるリスクがある。職場でも
  • 「光りの子供らしく」(2)
    「光りの子供らしく」(2) † 単純明快なこと。 光りの子供には、光りの父がいる。同類同質であることを理解できなければならない。でないと「光りの子供らしく」という事の本質を歪めてしまうからである。「弟子はその師にまさらず
  • 「光りの子供らしく」(1)
    「光りの子供らしく」(1) † 自覚を持って歩む。 「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」エペソ5・8)2017訳では「光りの子供として」となっている。「・
  • 「信仰の検証」(7)
    「信仰の検証」(7) † クールな信仰。 日中は酷暑の35度越えで、熱中症アラートが毎日のことである。そういう中で「クール」とは、涼しくて爽やかな様。冷たいまま。ということだ。高温の中で誰もが最も求めている。では信仰にも
  • 「信仰の検証」(6)
    「信仰の検証」(6) † 体験された信仰。 契約書は信用できる互いの条件で結ばれる。この場合は互いの実情を調査し、信用に値するかの確認作業をする。信仰は「信用・信頼」と同じで、任せきることである。そのためには、自分自身が
  • 「信仰の検証」(5)
    「信仰の検証」(5)  † 泉の源を知る。  私には、思い起こす言葉がある「巧言令色少なし仁」である。これは、自らへの自戒の言葉である。「論語」の孔子の言葉だが「話は巧みで、顔つきも良い、しかし、そういう人に限って誠実さ
  • 「信仰の検証」(4)
    「信仰の検証」(4) † キリストの信仰を信じる。  「キリストの信仰を信じる」これは使徒パウロの信仰である。普通は「キリストを信じる」と言うし、ほとんどの聖書の表記が「キリストを信じる」になっている。即ち、キリスト「を
  • 「信仰の検証」(3)
    「信仰の検証」(3) † 日本人の宗教感覚。 この度、島根と鳥取を巡る機会を得た。島根は出雲大社を持ち、鳥取は、日本一の砂丘と漫画家、水木しげる氏がもたらした妖怪達のファンタジー(空想的事象)の世界を持つ。島根の「出雲観
  • 「信仰の検証」(2)
    「信仰の検証」(2) † 異邦人の信仰。              「百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべ
  • 「信仰の検証」(1)
    「信仰の検証」(1) † 自らの信仰を知る。 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を
  • 「苦しみの意味」(7)
    「苦しみの意味」(7) † 苦しみの背後。 私達は思いがけない災難(苦しみ)に会うと、なぜなのか、と一層の苦しみと、悩みが増し加わるのである。ヨブは、神を敬い、大きな祝福を受け幸いを得ていたが、突如として全財産を失い、愛
  • 「苦しみの意味」(6)
    「苦しみの意味」(6) † 同朋への苦しみ。 私は、周りに多くの知人を持つ。教会の中では、同信の友ばかりであるが、ほとんどの知人は、信仰と距離を置く人ばかりである。私達の持つ聖書の論理性を拒否することではない。理路整然と
  • 「苦しみの意味」(5)
    「苦しみの意味」(5) † 産みの苦しみ。 「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」ガラテヤ4・19)主なる神も同じように、私達を見ておられる
  • 「苦しみの意味」(4)
    「苦しみの意味」(4) † 意味のための苦しみ。 世界の多くの人々が、大切な意味のために、苦しみを引受けて戦っている。ウクライナの人々は、侵略者から自分達の自由と民主主義を守るために、苦しみながら、死を隣りにして戦ってい
  • 「苦しみの意味」(3)
    「苦しみの意味」(3) † 若いときの軛(クビキ)。   朝のテレビドラマのヒロインは、最も下っ端の使い走りをさせられる。その大部屋には10人くらいの先輩女優がいて、あらゆる嫌がらせ(いじめ)を楽しみながら、こき使うの
  • 「苦しみの意味」(2)
    「苦しみの意味」(2) † 神との質的な差。 当たり前のことが非常に重要である。神と人間では質が違うということである。この事を忘れると福音が理解出来なくなる。例えば:神は十全なお方であるから、苦しみを持たれない。完全の中
  • 「苦しみの意味」(1)
    「苦しみの意味」(1)  † 人間の由来。  人間とはなにか?人間の由来(ことの起り)から、現在までが人間なのである。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人
  • 「毎日の不動の錨」(7)
    「毎日の不動の錨」(7) † 私への真実。 人生の尊さの中に、誰にも明かせられない体験がある。私だけに与えられた真心であり、愛である。それは生涯の宝であり続ける。神は美しさを創造された。そして誰にでも、汚れのない美しい真
  • 「毎日の不動の錨」(6)
    「毎日の不動の錨」(6) † 主イエスの血潮。 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」マタイ24・35)なぜ、主イエスの言葉が滅びないのか?それは、主イエスが生涯を通して、神の御
  • 「毎日の不動の錨」(5)
    「毎日の不動の錨」(5) † 常に不十分であること。 ある人にとって、不十分と言われることは、気分を害する言葉である。しかし、日々に不十分でしかないことを痛感している。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりま
  • 「毎日の不動の錨」(4)
    「毎日の不動の錨」(4)   † 品位のレベルを下げない。  私達は限られた人々との出会いをし、長きにわたり関係を保って生きる。もちろん、多くのメディアを通して、人々の生活ぶりや、ドキュメンタリーを通して、今を生きる人々
  • 「毎日の不動の錨」(3)
    「毎日の不動の錨」(3) † 御言葉の抑止力。 人の生きるということは、順風満帆のまま終わるわけがない。それほどに身の周りも、世界も激動している。特に信仰に生き、伝道・牧会に身を捧げる人々には厳しい時代になって来ていると
  • 「毎日の不動の錨」(2)
    「毎日の不動の錨」(2) † 自分を当てにしない。  「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」 箴言3・5)これは自分にとって重要な事柄である。私は私のために自分のこれまでの知恵や知識で生きていきたいと思う。し
  • 「毎日の不動の錨」(1)
    「毎日の不動の錨」(1) † 初めに頼るべき力。 初めに、まずは自分自身が、力に満ちて立ち上がることが重要である。そのためには、ダビデのように「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の
  • 「神と人間の志向」(7)
    「神と人間の志向」(7) † 「生きるべきか死すべきか」 シェークスピア四大悲劇の一つ「ハムレット」の有名なセリフである。父親を殺されたハムレットは、仇討ちのために勇敢に戦って「死ぬべき」か、神に全てを委ねて「生きる」べ
  • 「神と人間の志向」(6)
    「神と人間の志向」(6) † 試行錯誤する。 目的のため、計画を立てるが、そのためには試行錯誤が伴う。ドラマではないが、一つの商品を完成させるには、血のにじむような辛苦の時期を通らなければならない。地上に神の国建設を担う