「神と人間の志向」(6)

† 試行錯誤する。
 目的のため、計画を立てるが、そのためには試行錯誤が伴う。ドラマではないが、一つの商品を完成させるには、血のにじむような辛苦の時期を通らなければならない。地上に神の国建設を担う教会は、置かれた地域の歴史と文化、地政学的な流動性の中で、試行錯誤しながら、最も適した手段を見いだし、目的(神の国建設)のため具体的な目標(計画)を持てるようになる。そこには「あなたの手にあるそれはなにか」出4・2)と、神が実際に用いるモーセの杖が、今日では私達のことなのである。100人の信徒がいれば、100以上の賜物が能力となって現れ、一致する信仰を持てば、宣教の働きは非常に大きい。そのために、試行錯誤しながら、方向性としての志向が定まってきたと思う。揺るぎない志向か確立するには、多くの失敗を伴う、試行錯誤があったのである。その収穫と価値を生かして行くのが神の国の建設である。生みだす発明や技術は、口先や言葉ではない、祈りと行いを通して教会は生みだし、創り出す能力を持てるのである。私達が神に用いられる「杖」となれることを喜び、各人の価値を見直したい。


† 志向をあきらめない。

 よく「筋を通す」という言葉がある。ひとたび、キリスト者となった以上、主イエスに従う者でありたい。人生は長い、その節目、節目でも変わることのない純真さでキリスト者でありたい。それが私の志向である。聖書を読む限り、私にそのようであれと語るからだ。完璧に出来ているのではない。不出来に嘆き、不十分な弱さに悲しみに沈むのである。だから、主イエスを新に見上げる機会になり、主のあわれみと愛の注ぎを受けられる、それで、志向する信仰が守られるのである。こんな私ではなく、能力と知性に力ある私だったら信仰に生きる「筋を通す」よりも、自分を目だ立たせる世界に重心をおいて、賢く生きる志向に生きたと思う。だが、私は十字架に死んだ者、そして葬られ土になった者である。しかし「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)筋を通すということは、聖霊によって目が開かれ、主なる神の実際の御業の中に入れられて生きることである。私自身の中には頼る何ものも無い。そのように生きると「筋が通る」のである。

「神と人間の志向」(6)