• 「福音を熟慮する」(5)

    † 沈思黙考(チンシモッコウ)。
     静かに深く考え込むことが、沈思黙考である。私達の欠点と言えば、まさに「静かに考え込む」時間が持てていないことである。それほどに雑多なことに費やし、スマホを通しても、多くの時間を虚しい事に費やしている。クリスチャンが瞑想すると言う事の意味は、神を見いだし、神を知る。と言うことである。「イサクは夕暮れ近く、野に散歩(meditate黙想・瞑想)に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た」創24・63)イサクは「黙想」するために野に出たのである。より孤独になり、神よりの糧(御言葉)を反芻(ハンスウ)し、神からの真の栄誉を発見し、神により近く生活できるようになるためでるある。そして近づいて来るものがある。ラクダの群れではなく「最愛のリベカ」を見いだした。これは私達が、大自然の場所に赴き、創造主の神聖を仰ぐ時、主イエスが黙想の全てとなられる。最近出向いたキャンプ場で深い森林を通る小道を歩いた。まさに森羅万象、神の御業の中に置かれている自らを知った。主イエスは最も善きものを備えて、私達と出会われる。それは、私達が主のために備える時である。例えば、街の雑踏の中でも、家の中でも、自分の心を主の御前に進み行かせることである。私達はそのようにして、主にお会いするのである。

    † しんがりを歩む。
     「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」マルコ9・35)しんがり(最後尾)は最も敵の攻撃を受けやすい。野獣も最後尾にいる弱いもの(子供)を狙っている。英語のしんがり「rear guard」は、軍隊や部隊の最後尾を護衛する部隊を指す。霊的なしんがりには、傷ついた者、病気の者、元気の無い者、動揺している者、疑い深い者がおり、悪魔が食い尽くそうと、最も攻撃を仕掛けて来るのである。この攻撃されやすい人々を護れる「しんがりの務めのできる人」は、良く訓練された聖徒でなれば務まらない。要するに誠に、頼れる人であり、しんがりにあって「神の旗」を掲げている、健全な信仰の人である。弱い人に同情する以上に、御霊の剣を持ち、悪魔に立ち向かう力を持っている人である。みなに仕えられる人になれ。