• 「恵みの至る所」(5)

    † 枯れることにもなる。
     恵みの所在は神にある。私達の生まれつきの所与ではなく、主なる神から与えられているものである。主イエスを信じて「神の恵み」が与えられたのである。大切な事は、与えられた恵みは、私の中に守り続けるものである。また、恵みの本来の偉大さに、私において成長増大させることが求められているのである。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩1・3)これこそが、恵みの成せる業である。その条件は「水路のそば」に植わっていることにある。屋内に観葉植物を育てるならばわかることがある。毎日の水やりを絶やすことは赦されない。「その葉は枯れない」ことで、実をならせる。私達は与えられた恵みを枯らさないように、毎日感謝し、毎日恵みを告白する。「あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。」詩108・4)具体的な日々の恵みとの関わり(水やり)を怠れば、恵みの木は実質、実を結ぶ力を失う。霊的に枯れてしまうのである。恵みは、今どれほどか?手抜きのために恵みが死に瀕していないか?急いで、恵みに係わり豊かに恵みを蘇生させよう。

    † 恵みのもたらす祝福。
     私達は多くの祈りの課題を与えられている。その事によって、神の恵みの業が顕現されるのである。あらゆる必要について、聖所に入って、祈らなければならない。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」 ヘブル10・19-20)聖所に入るとは、神の臨在の身元にまで近づくことである。聖い、主イエスの血によって、十字架で打ち砕かれた、主イエスの肉体を通って可能な事だ。そこまでの敬虔な信仰が現実に求められるのだ。その聖所の中で祈られる祈り(執り成し)には、神の誠実な御心が行われる。聖書に基づき、キリストの御業に基づいて、重要課題を祈る教会になるべきである。「・・・・万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」ゼカリヤ4・6)